シロフクロウさんの音楽コラム ←四方山話1話〜30話

☆60話=2008年3月26日・憧れることの大切さ

人は、なにかに触発され、憧れを抱いたとき、自分の進むべき道を発見することがある。
昨日のニュースで、世界選手権優勝者となったばかりの浅田真央選手が帰国して、東京のテレビ局に直行した。
インタビューを受ける中で、浅田選手の子供時代のビデオ映像が流された。
当時は小学生の真央チャンが、可愛い姿と声で、フィギュアスケーターになると宣言していた。
フィギュアスケート選手になり、オリンピックに行くという夢を、純真に語る姿は、17才の今に重なった。
御年、17才にして世界チャンピオンとなった浅田選手を突き動かしたものは当時の【憧れ】であった筈だ。

なればこそ、明けても暮れてもリンクの上に立ち、過酷な練習を自ら進んでやり遂げている。
憧れをもってフィギュアスケートの世界に入った真央チャンは、今も、眼をキラキラさせて言うのだ。
「お客さんに、感動してもらえるような演技をしたい」
う〜む、十代の少女に、そんな素晴らしい決意を言われると、もう、言葉を失うのみだ。

つまり、浅田選手にとってメダルは大切なものだが、結果の象徴であって、突き動かすものは別の憧れだ。
「お客さんの、ワーッ!という声援を受けた経験をしてしまったら、もう・・」ということを吐露している。
つまり、解りやすく言うと、観客の歓喜に満ちあふれた歓声によって、洗脳されるのである。
俳優、オペラ歌手、バレリーナ、もろもろの表現者達が、恋い焦がれるものは、観客の歓喜への憧れである。

少し、キザな言い方をさせてもらえば、
「ベートーベンの歓喜の歌が、彼等の脳内を占拠したとき、彼等は生涯、その世界から抜け出せなくなる」のだ。
フィギュアスケーターとしての世界チャンピオンは、広いリンクの中で、ただ一人だけで歓声に包まれる。
あらゆる称賛と歓喜とが入り交じった歓声が、一身に注がれる。浅田選手ただ一人に歓喜の声が注がれるのだ。

そういうかけがえのない経験は、次なる訓練と試練に耐えうるエネルギーを、浅田選手に与えたことだろう。
常々より、私が着目している芸術の有り様とは、
【あらゆる芸術は、表現者と、それを讃える歓喜とが、相乗効果を持って高みへ導かれるものである】

つまり、表現者だけとか、観客だけとか、片方だけでは完結しないのが、総合芸術と称される分野の特徴です。
フィギュアスケートとバレエは、要素が重なる部分が多くて、沢山の類似点をあげることができる。
少なくとも、提供している側は、競技としてだけではなく、芸術表現として、年々進化している状況が有る。

ただ、バレエのように、受ける側が洗練されているとはいえないところがあり、私は常々から苦言を呈している。
その責任の大半は、俗悪なテレビ局の放映姿勢にある。
これがバレエ団公演の舞台演技中であれば、プリマが踊っているときに、アナウンサーや解説者は無言だ。
ところが、フィギュアスケートとなると、途端に悪逆非道が堂々とまかりとおり、安酒場の座席と化す。
アナウンサーによっては、訳の解らない妄言をつらねて、自己陶酔に浸る始末だ。
お茶の間の私は、安酒場の酔っぱらいに数人に絡まれて、ウンチクを聞かされながら舞台を見なくてはならない。

少し、話が脱線したけれど、バレエと違って、フィギュアスケートはまだ、発展途上の総合芸術なのだろう。
選手達は、単なるアスリートにとどまらず、芸術表現者としての高みを目指すようになると、私は予測している。
滑走技術は限りなく進歩し、洗練されてきたが、一方、受け止める観客側も、目が肥えてきている。
ただ一角、マスコミだけが俗悪なまま取り残されている。そのマスコミは批判されることが少ない既存勢力だ。
彼等は自ら変革しようとしないから、インターネットによる映像配信が、彼等、俗悪勢力を駆逐して欲しい。

☆59話=2008年2月21日・老後の時間とは、無効時間付きの有効時間である

還暦を過ぎれば、残った人生の短さを思わずにいられない。残された時間は、思ったほど、長くは無いという話をする。
音楽やオーディオの楽しみに限らず、あらゆる人生の楽しみは、命ある今の内に楽しんでおかないと、後が無くなる。
何処かの民族は、その人が、この世に存在したことの大きさは、死後にどれだけ盛大な葬式をしたかで、推し量られるという。
そういうことに金と時間を浪費するよりは、残りの人生が、後、いくら有るかを考えて、計画性を持ったほうが利口だと思う。

葬式の後に、親類縁者が遺産を取り合って壮絶バトルを繰り広げるのを楽しみとする、ひねた人もいるかもしれないが、
死んでしまったら、遺産相続バトルファイトも見られない。やらせるなら、生前にデスマッチをやらせた方が良かろう。
死後の世間体なぞ気にすることは無いし、今を大切に生きなくてはならない。お金と時間は生きている内に使わなくてはならぬ。
自分がこの世に存在したことの意義とは、その人が生前にどれだけ人生を楽しんだかで決まると、私は考えている。

現代の日本人だって、世間体を気にして、見栄を張ることに意義を見いだす人は、少なくない。
普段は質素に暮らし、遺産を残しておこうとか、盛大な葬式の準備をする生き方なんて、私の場合、全く意義を見いだせない。
その人が、この世に存在したことなど、5世代もすれば、親類縁者の誰もが覚えていない。上手くいっても千年後には消滅する。
世間様というのは、口うるさく噂話をするけれど、いざというときには、何の役にもたたないものだしね。

人生計画で、忘れてはならないのが、単純に【残った命の時間】ではないところが重要で、そこに気付かなくてはならない。
老後なんてのは、意外に有効時間が少なくて、上手くいって後半1/3は、単に生きているだけの状態になるからだ。
解りやすくオーディオで言うと、年老いて耳が良く聞こえなくなってからでは、時既に遅かりし・・なのである。
つまり、生ける屍に、ちょっと毛の生えた程度の肉体になってしまってからでは、あらゆる楽しみが光を失ってしまう。
健全なる肉体ではなくなってから、ジタバタしたところで、やれることはたかがしれており、面白くも何ともない。

そこらへんの事情から、単純に平均寿命をもって、残された老後の人生時間を計算できないということになる。
冒頭に書いたように、残された時間が、思ったほど長くは無いことの根拠は、正味時間の短さだということに尽きる。
「人生の有効時間」と置き換えても良いが、残った時間の正味は意外と少なくて、実際には、無効時間付きなのである。
若くて元気な頃とは違い、老後は何をするにしても、とても時間がかかるものであり、有効時間が少ないのだ。

結論を言えば、老後の時間が、7万時間とか、8万時間と言われて、エラク時間があるものだと、喜んでいてはいけないのだ。
つまり、老後の時間とは「人生の有効時間と無効時間」が、セットになっていることに、気付かなくてはならない。
これを読んだ方が、少しは焦る気持ちが芽生えてくれることを祈る。ノホホン人生は、老後をつまらなくするからだ。

☆58話=2008年1月9日・門前の小僧もあなどれない

オーディオルームにおいては、部屋の模様替えをすると音響特性が変わるので、滅多なことでは家具の位置替えはしない。
だが、一ヶ月ほど前に、大きなテーブルを、オーディオルームの中央に持ってきて、テーブル下にパソコンを設置した。
今までは、真剣に音楽を聞くときは、スピーカーと自分の間に置いた小さなコーヒーテーブルも片づけて聴いていました。
模様替え後には、大きいテーブルと大型MacComputerが、スピーカーと私の間に恒久設置されてしまうことになった。

これで音響は様変わりとなり、端的な変化としては高音が強烈に出るようになって、音楽表現がキツクなったのだが、
これはこれでエキセントリックだからと、そのままにしておいたのだった。ところが三日前のこと、私の妻がこう言った。
「貴男、また、音を変えた?」あうう!・・とうとう気が付きよったか!・・と私は思った。
私がオーディオ装置をいじったわけではなくて、部屋の家具位置を変えただけなんだが、変えてしまったことには違いない。
やむを得ない「じゃあ、明日、調整するよ」と応えると「これはこれで、いい音だとは思うんだけれど・・」と妻が評した。

門前の小僧、恐るべしである。妻は、何十年と経験を積んだオーディオマニアでもないと解らない変化に気付いていた。
当家の【フクロウの巣穴・オーディオルーム】には、これまでオーディオを趣味とする人が来ているが、ここまでは解らない。
私の妻ほど的確に、JBLパラゴンの音響を把握している人間は、世に何人も居ないだろうと思っている。門前の小僧なのだ。
勿論、彼女は音は理解できるが、音響調整が出来る訳ではない。絵の批評家だからといって、絵が描けないのと同じである。

次の日、つまり、昨夜のことだが、勤めを終えて帰宅した妻に、私が音響調整を施した音を聴かせた・・
「高音が抑えられて、気持ち良く聞けるけれど、これって普通の音ね」はい、そうです。その通りです。そのように調整した。
妻は言外に、普通の音で気持ち良いけれど、普通なのはシロフクロウさんの音では無いと、まぁ、そう言った訳だね。
そもそも、シロフクロウさんはエキセントリックな人間だから、ウットリと気持ちよくリラックスするだけでは駄目な人なのだ。
さいですか・・、チト、気持ち良くし過ぎましたか、聴いているとトロ〜リと眠くなるほどにしたのは、やりすぎでしたかね?

かくして、本日1月9日、旦那を千葉駅まで送って行って自宅に帰ったシロフクロウは、朝から、またもやパラゴンの上に乗った。
いえ、こんな格好しているからといって、JBLパラゴンとナニしている訳ではなく、スピーカー背面のツィーターコントロールを、
微調整するには、こうするしか無いのだ。二日前にボリュウムツマミを5ミリほど下げたのを、半分の2.5ミリほど上げてやる。
四半世紀もJBLパラゴンと暮らしていると、調整後にどんな音になるかは知り尽くしているので、一度の調整で完了です。
それに呼応して、コントロールアンプの1500ヘルツを受け持つボリュウムを調整して完了です。これも長年の手の内ですから。

今、調整を終えたJBLパラゴンの音響を聴いているが、これで普通の音から脱却して、シロフクロウの音になった。
それにしても、アンプのツマミでもない、ごく僅かの変化しかもたらさないツィーターコントロールボリュウムなのにねぇ。
このボリュウムを3ミリ前後動かした音質差が解る女というのは凄いことで、妻の門前の小僧も、あなどれないと思った。

この話を、単に高音が出る出ないのことだと思って読んでいる人は、全く話の本筋を理解していません。
それはまだ聴力が劣化しない幼児の【聞こえる聞こえない】という次元の話であって、音楽表現としての高音域のことでは無い。
まぁ、そのことを、こと細かに書く必要は無いけれど、オーディオというのは、奥深いものだと思っていただきたい。

☆57話=2007年12月26日・女性カントリーミュージック歌手を聞きましょう!

このところ、新しいCDを購入していませんので、更新は低調になっておりますが、管理人は意気軒昂です。
【女性カントリー歌手を応援する】というタイトルにあるように、主にアメリカのカントリーシーンで活躍する、
多くの女性歌手達の中から、売れている歌手も、売れていない歌手も、等しく平等に扱い、選別して紹介してきました。
このスタンスは、ウェブサイト発足時から、終始変わっておりません。

いまだに、一枚のアルバムだけしかリリースしない歌手や、中には既に亡くなられた歌手も居るけれど、
私のオーディオルームの中では、録音されたCDと共に、永く歌い続けています。決して、忘れ去られることはない。
CD棚の奥にしまわれていても、メインページに掲載されている歌手であれば、最低でも年に一度くらいは聞いている。
女性カントリー歌手達の歌は、そうやって、時を隔てて、何回も何回も聞くことによって、心に染み渡っていきます。

生のコンサートで一期一会に感動するのとは違い、心の中に、より深く、感動を刻むことが出来るのが再生音楽です。
日本では未だに良く理解されていないカントリーミュージックだが、最新ポップス的な要素があって、常に新鮮です。
古いジャズをLPで聞くという趣味も悪くは無いが、真新しい流行歌であるカントリーミュージックが、私には魅力的だ。
私のオーディオ装置も、そういう最新のCDを聞けるように調整してあるし、最新録音はやっぱり音質が良くて楽しい!。

そもそも、カントリー音楽に馴染むには、もっと軽いタッチで構わないから、ポップの一種と思って聞いてみてほしい。
そして、日本人は、もっと、カントリーミュージックに親しんで欲しいものです。
カントリーといっても、いろいろ沢山あるので、自分好みの歌手やアーティストは、一人や二人は見つかる筈ですからね。
聞いた中で「おっ!この歌、いいねっ」と思える女性歌手がいたら、それが貴方の幸せに繋がるし、人生を豊かにします。
どんな、お気楽な入り方でも構わないから、多くの人々に女性カントリー歌手の世界に入ってきて欲しいものだ。

勿論、この歌手は美人だなぁ〜、という不純?な動機から入ってきても構わない。美女は誰だって好きなんだしね。
若くて美しい女性歌手の声を楽しめるのは、カントリー・ミュージックの特質でもあります。
音楽というものの、とっかかりは、そういう単純に「好きだなぁ〜」から始まることが望ましい。
なんたって音楽の世界は、どこもみな、門戸は常に開放されている。カントリーも同様だ。貴方もどうぞお入り下さい。

☆56話=2007年11月27日・カントリーミュージックをフィギュアスケートに

今はフィギュアスケート・シーズン真っ盛りということで、シロフクロウさんは、毎週末の放送を楽しんでいます。
世界各地を転戦するグランプリシリーズは、今週末のNHK杯を残し、12月のトリノ・ファイナル戦を待つのみです。
スポーツで音楽を使用する種目というのは、舞踊性を内包したものが多く、水中競技のシンクロもそのヒトツだが、
音楽を加味することによって、単なる肉体の鍛錬を競う種目が、芸術性を帯びたものに変貌する。

フィギュアスケートでは、有名選手が使用したことで【名曲】の名を高めたラベルのボレロが知られる。
イギリスのアイスダンスペアの、ジェーン・トーヴィル&クリストファー・ディーン組がサラエボ五輪で使い、
審判員全員が満員をつけた演技は、全世界を感動させたのだが、それまでのフィギュアスケートの常識を破り、
アイスダンスにストーリー性を持ち込んだ、革新的な演技内容であったことも、話題性を増した出来事でした。
だからこそ、ラベル作曲のボレロは、その単調なる繰り返しに過ぎない曲を、
フィギュアスケート界にとって、伝説の名曲として、フィギュアスケートの歴史に名を刻むことになったのだ。

これからも、フィギュアスケート史上に名を刻む名曲は、演ずる選手の名演技と共に、生まれてくると思う。
それは、音楽史上から択抜されるよりも、類希な名選手が渾身の演技を示すことにより、名曲と成りうる。
日本人にとっては、馴染み深いとは言えないプッチーニのオペラ曲、トゥーランドット【誰も寝てはならぬ】は、
荒川静香選手の流麗な演技と共に、一般大衆にも、忘れ得ない曲となったが、これも一例だろう。
つまり、名選手の名演技なくては、かほどまでには大衆に知られなかったろう、ということなのだ。
それは、あたかも、名歌手の名唱によって、歌曲が世に知られるのと同じで、相乗効果の昇華といってよい。

以前も【四方山話】に、希望として、フィギュアスケートにカントリーミュージックを使って欲しいと書いた。
フィギュアスケート界では、様々な曲が使われるが、クラシックの名曲など、固定化されてしまった曲も多い。
なので、固定観念をうち破った音楽を、フィギュアスケートに使うことは、大いに推奨されるべきだと思う。
荒川静香さんが現役時代もプロ転向後の現在も使用しているケルティッシュ音楽は、カントリー音楽のルーツだ。
アイスダンス種目では、既にカントリーミュージックが使われており、とりわけ、目新しいことではないが、
女子選手が、フリー演技種目で、ブルーグラス・ミュージックで滑ったという話は、まだ聞いていない。

最近のアイスダンスでは、カントリー音楽が使用されたことが報告されており、とても楽しかったという。
シロフクロウとしては、カントリーミュージックは、編曲が無くても、それ自体が既に楽しいダンス音楽も多いし、
是非とも、アイスダンス種目のみならず、可愛らしい選手や、美しい女子選手に、プログラムに取り入れて欲しい。

(アイスダンスでは全選手が同じジャンルの音楽で滑る種目も有り、そのシーズンによって音楽ジャンルが変わる)

☆55話=2007年10月19日・音楽を贅沢なものと認識し、自身を律する

オーディオを趣味にしている人が長旅から帰ってくると、自宅のオーディオから流れてくる豊かな音に感動する。
私が知っている人の中には、さほど豪華な装置を使っていない人もいるが、それでも感動は同じだろう。
勿論、どんな機械でも良いわけではなく、感動するには、それ相応のクォリティを持つ機器である必要は有るが。

「なんていい音なんだろう!。こんな良い音は旅先では無縁だったなぁ〜」とて、しばし感動しまくるのである。
一時間もしない内に、その感動は薄れてしまい、それほど良い音であっても、そこに有るのが当然のことになる。
だから、人間は猿に毛が三本生えた程度の、やくたいもない生き物であると、私は常日頃から思っているのだが。
人間は直ぐに贅沢に慣れてしまうし、恩知らずの軽薄な生き物だと思い至ると、我ながらガッカリしてしまう。

現代は、あまりにもお手軽に音楽を得られるから、音楽の有り難みが薄れており、感動することが少なくなった。
再生音楽がない昔、西洋貴族が食卓に付く時に、楽士に演奏させていたのがディベィルティメントであったけれど、
そこまで洗練されていなくても、庶民が美味しい食事をとる時に、同時に音楽もあれば、満足度は高かったろう。
つまり、音楽とは、あらゆるところで、贅沢を甘受する要素としての付加価値が有るが故に、愛されてきた。
贅沢なものの上に、さらに贅沢度合いを増すには、音楽ほど最適なものはないのだ。
感動をもたらす文化ゆえに、あらゆるところで音楽は応用されてきた。
映画もオペラも音楽なしではさびしいし、日本なら歌舞伎だって、音楽抜きでは考えられないように。

音楽は、最も贅沢なものであるが、その一方で、
現代人が、一歩街に出れば、店内のバックグラウンド音楽にさらされて、感受性を麻痺させられている。
そういことで、現代人は、もっと、真摯な気持ちで音楽に相対し、虚心坦懐に音楽を愛でる必要がある。
あまりに、あたりまえに、そこらへんに転がっているがごときものと同様に、音楽を扱うのは、不幸なことなのだ。

音楽は、それ自体が無くても暮らしには困らないから、その贅沢度が高いのだけれども、必要不可欠な人もいる。
だからこそ、有る期間、まともな音楽から切り離された旅先から帰宅すると、その幸福度を噛みしめることになる。
しかし、現代人のように、安易に音楽の有る暮らしに慣れてしまうのは、よろしくないのだ。
音楽のない貧しさを知ることも必要だし、オーディオファンであればなおさら、常日頃から、自らを律するべきだ。

人間は、豊かだった暮らしから一転して、貧乏な暮らしに陥ると、辛いことには、なかなか慣れないものだが、
その一方で、貧しい暮らしから贅沢な暮らしには、瞬時に慣れ親しんでしまうところがある。
そういう、実に軽薄な生き物だということを自覚して、音楽のある暮らしに感謝しなくてはならない。

☆54話=2007年9月26日・ウェブサイト運営のすすめ

福沢諭吉著の【学問のススメ】じゃないが、本日はウェブサイト運営の薦めという題です。
はなはだ、乱暴に決めつければ(そのほうが、話としては面白いから、これで良しとする)
この世は、ウェブサイトを運営する者と、それをただ見ているだけの者と、
見ることさえ出来ないものとの、三者に分類される。

団塊の世代が大量退職して、暇が出来た人達がやるべきことは、インターネットに親しむことだ。
なにせ、足腰が弱り、ヨボヨボの爺さん婆さんになっても遊べることは、そんなに多くは無いからね。
近年では架空次元世界で、ネットでバーチャル暮らしが出来る【セカンドライフ】も有る。
車椅子暮らしの人でも、セカンドライフの中なら自由に歩けるし、老人でも若い美男美女になれる。

踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら、踊らにゃ損々・・という、歌の文句があるけれど、
同じ事なら、三者の内、ウェブサイト運営をしているほうが、ただ見ている者よりは面白いのだ。
よって、シロフクロウとしては、出来る環境に有る人達には、ことあるごとにサイト開設を勧めている。

福沢諭吉の【学問のススメ】では、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と諭し、
学ぶ者と、学ばざる者との違いによって格差が生ずるということを教えている。
これをウェブサイトにあてはめると、サイト開設者と、タダ見している人との間に格差が生ずる。
ウェブサイトを見ることさえ出来ない者は、この際、切り捨て御免にして、うち捨てておく。
今時、インターネットも見られない人は、路傍の露と消えてくれ!フクロウ語録に救済は無い。

「ウェブサイト運営をしているほうが、ただ見ている者よりは面白い 」と書いたけれど、
端的な例として、パソコンを買っても、自分のパソコンの中だけで、各種ソフトを使って遊ぶ人々を、
【スタンドアローン】と称していることはご承知の通りです。これは宝の持ち腐れ。利口ではないね。
インターネットの大海に乗り出すことの無いまま、自分の世界だけに閉じこもるのはツマランのだ。
そんなことでは、全然面白くないのだよ。ただ見るだけでも、自分の船に乗って自由に大海を航海し、
未知の世界を探検できるというのは、なにものにも代え難い楽しみをもたらします。

さらに、付け加えると、そのインターネット世界で、自分のウェブサイトを開設するということは、
インターネット大海に自分の小島を得たと同じようなことなのだ。これは、自分の領地を得たということになる。
海賊ジャック・スパロウが、自分だけの小島を領地として確保したようなものなのだ。
【自分が王様として君臨し、自由を謳歌して統治する領地】というのが、自分のウェブサイトを持つ喜びです。
比較すると、多くの【インターネットを見るだけ】の人達は【寄る辺無き流浪の民が漂流】しているだけに見える。

勿論、先に述べた学問のススメは、ウェブサイト開設者の、その後の努力にも当てはめられる。
開設はしたものの、ロクに更新もせず、中身が軽薄なウェブページを100ページほど作っただけの、
薄っぺらなウェブサイトのままでは、とてもインターネット大海の小島とは呼べないです。
そんなウェブサイトは、島ではなく漂流ゴミです!大海を浮遊する軽薄サイトの数々はゴミ公害です。
そういうサイトの中には、私が【暗礁サイト】と呼ぶ類の【他人のフンドシで相撲を取る】のも有る。
潮の満ち引きで見え隠れするような、草木も生えない暗礁サイトは、困った存在である。
頼むから、自分で作ったコンテンツを掲載してくれよ!常に海面上に姿が見える【岩礁】くらいにしてよ!
せめて岩礁くらいでないと、ネット大海を航海する人達が遭難するじゃないか。

時々シロフクロウさんもネットサーフィンしていると、暗礁に乗り上げて遭難することがある。
自分で作成したコンテンツは少しで、他人のサイトをリンクしているだけの【暗礁サイト】は重たいゴミだ。
そういう海面に見え隠れする暗礁サイトは困るよ。サッサと海面下に沈んでくれ!航海のジャマになるから!。
本来のサイトに早く行き着くのを妨害するサイトは、存在すること自体が、公害みたいなものだ。

☆53話=2007年8月11日・アルプスの牛さん達は、毎日漢方薬を食べている?

53話は、スイスの話しパート2。スイス・アルプスのハイキングコースは、放牧される牛さん達のテリトリーです。
標高が高い岩場など、牛が歩くには危険なところはヒツジが放牧されている。つまり草の生える場所全てが放牧地。
日本では、ありがたや!と貴重視される高山植物も、スイスアルプスでは、牛や羊のゴハンでしかないのだ。
実際、美しい花達を愛でながら、ルンルン♪と歩いていると、牛のンコがドンッ!アッチにもドンッ!と落ちている。
つまり、哀れなるかな、高山植物達が食べられてしまった痕跡が、この点在する沢山の糞なのである。

昔から、高山植物は、厳しい生育環境にさらされているせいか、下界の植物達に比べると、薬効あらたかなものが多い。
日本で言うと、下界のセンブリより、高山種のトウヤクリンドウが珍重されていましたね。
化学薬品の無い遠い昔は、高い峰にしか無い植物というのは、それだけでありがたがられたということだが、
実際に、成分分析をして、有効成分含有量を調べても、その傾向はあるようだ。
もっとも、古来よりコマクサは【霊草】とか【お百草】の原料として使われていたけれど、コマクサには薬効は無いだろう。
注=御嶽山の五夢草=コマクサ、オンタケニンジン、オウレン、センブリ、ゲンノショウコ、オウゴン等の混合

話がそれたので軌道修正するが、洋の東西を問わず、高い峰に生育する高山植物は、薬草として珍重されてきた歴史がある。
ところが!スイスアルプスにおける現代の実状はというと、農地というか、タダの牧草ということになっているのだ。
牛さん達に言わせれば、
「漢方薬だって?生薬だって?、んなぁ〜ものなど、あたしゃ、毎日食べ飽きているわよ!」ということなのだろう。
「毎日ヤクにまみれてさぁ、たまには普通の草も食べてみたいモンですわいな」と、牛さん達はぼやいているかもしれない。
シロフクロウさんは、スイス・アルプスをテクテクと歩きながら、旦那フクロウと、そういう話をしておりました。

下界の牧草なら、植物エキスも濃厚ではないし、牛や羊達にとって、エグミが少なくて食べやすいのではなかろうか?
ちなみに、当家の妻である旦那フクロウは山菜が好きなのだが、それは彼女が飲んべえであることに関係している。
「牛だってね、みんながみんな、貴女のような飲んべえではないだろうし、山菜好きの牛なんて、あまり居ないかもよ」
なんちゅ〜事を言ったりしましてデスね。高山植物を牛用山菜にしてしまったりしてデスね・・たはは・・
まぁ、実際に、高山植物をツマミにして、牛さん達がビールや酒を飲んでいたら、スンゴイ面白い光景だろうだけど。

つまりデスよ、シロフクロウの言わんとするところはデスね。彼女等(乳牛だから全部メスです)も、
本当は高山植物よりも普通のゴハン(牧草)が好きなんだけれど、えり好みしてられないから、やむを得ず食ってると思う。
私は妻と違って、山菜は嫌いな人だから、そういう事を考えたのですけれどもね。
酒も、酒のツマミも、どちらも不要な我が身に照らし合わせれば、牛さん達が気の毒に思ったワケなのだ。
もっとも、現実の牛さん達は、餌の好き嫌いを言っていると、腹ぺこで困ってしまうんだろう。
スイスのアルプは高山帯だけに、草も堅いものが多そうだし、超綺麗な花が咲くゲンチアンなんて、超苦いだろうしなぁ〜。

まぁ、牛さんや羊さん達にしてみれば、シロフクロウの同情など、大きなお世話だろうけれど、
毎日がヤクまみれの皆様方には、たまには下界のエグミの無い、柔らかで美味しい草を御馳走してやりたいと思いました。
私自身は、スイス旅行中に、毎日、朝晩をホテルの食事にしていたけれど、不味くて食べられないことが多かったのです。
つい、牛さん達に同情してしまったのでした。ええ、ワタクシ、半月間の旅行で2,5キロ痩せましたんです。

☆52話=2007年7月31日・アルプスの花と山を見た報告

月末31日になって、ようやく四方山話を書くことになりました。スイス旅行から帰って、とても忙しかったのです。
「一度はスイスに連れて行ってやりたい」という旦那フクロウ(妻のこと)の願いが叶った旅行でしたが、
それは、私達二人の出会いが北八ヶ岳であったという、いわれもあるからだ。つまり、ある時期、妻は山女だった。
私はよく冗談で言うのだが「妻は山で拾ってきた」と言っている。そして今日31日、28回目の結婚記念日を迎えた。
fukuroo3の独身の頃は、四季を通じて単独行をして、山岳写真や、高山植物の花の写真を撮り歩いていたが、
結婚後は、妻を連れてのテント登山をよくやるようになった。ひ弱な都会っ子だった妻は、随分頑張ったものだ。

夏の荒天時、稜線にテントを張った時など、テントが吹き飛ばされそうになり、全裸の私が外に出てペグ打ちをし、
妻はというと、けなげにも、テント内で必死の作業をして、嵐を切り抜けた想い出もある。
豪雨付きの荒天だから、ついでにテントから流れ落ちる大量の雨水をコッヘルで掬い取って、
「これで貴重な水を確保したぞ!山小屋から買う水よりは新鮮だし、はるかに美味いぞ。ほれ、いくらでも飲め!」
などと、快哉を叫んだものだ。それもこれも、私としては、美しい花を妻に見せたかった故に、山に連れて行った。
そういうことで、私達二人には、夫婦という絆を越えた、山の友という特別な連帯意識が芽生えたのだった。
だから、そういう妻が、今年還暦を迎えた私を、スイスアルプスの花を見せに連れて行くのも、自然の成り行きだった。
「ヒマラヤの青いケシが見たいでしょうけれど、貴男の体力ではもう無理だから、スイスアルプスの花でどう?」
というのが、スイス旅行に誘った妻のセリフであった。ありがとうね・・〜(T^T)

さて、スイスで花を愛でるのは、平坦なハイキングコースをルンルン気分で歩くというのが可能です。
登山列車とか、ゴンドラやリフトやらを利用して、アッ!という間に、高山植物達が咲きそろう高山帯にたどり着ける。
気分は【アルプスの少女ハイジちゃん!】といきたいけれど、極端に体力が衰えたシロフクロウは、そうはいかない。
アルプスのヘロヘロ爺さんは、息が切れるわ、思考能力はプッチンするわで、とてもルンルン気分ではなかった。
なにせ、私は片肺半分が機能を果たしておらず、常人の3/4の肺機能だし、入院患者も及ばない重度の貧血症なのだ。
しかし、はるばる地球の裏側から辛い飛行機乗りをして、やっとのことでアルプスの花達に逢えたのだ!やっほー!

還暦爺さんは、ここが終焉の地でもかまわないと、必死で歩き回り、可愛らしい花の写真を撮りました。
いいねぇ〜・・花は。自宅でもバラの花を咲かせている花咲爺さんですけれど、野生の花はまた格別ですもん。
下を見れば咲き誇る花達、見上げれば白い雪をいただくアルプスの峰が連なります。この光景はなんとも言えない。
いいねぇ〜・・山は。日本の山岳も花だけならスイスに負けないお花畑が有るが、山ではとてもスイスに敵わない。
青空にキラキラと白く光る、高い峰を見上げると、もぉお〜神々しいというか、なんちゅ〜か・・〜(T^T)
花も山も、言葉には尽くせない美しさでありました。

半月のスイス旅行を終えて、帰宅した後で、撮影した写真を眺めたり、ブログやサイトに使ったりしているのですが、
【フクロウの巣穴】サイトに、写真紀行を掲載する気が起きないのは、何故なんだろう?と、考えてみると、
あまりに非日常的な出来事を写真紀行にしても、行った人だけの【独りよがり】になりそうな気がするからですね。
私自身も、以前に、スイスアルプスの山も花も、写真では何度も見ているが、綺麗だねぇ〜!とは思うけれど、
行った経験のない場合、遠い国の出来事故に、どこかに絵空事という気持ちがあるので、身近に感じないのです。
結局の所、行った人だけにしか解らないという、ごく当たり前の結論に至り、サイトに掲載する気持ちが萎んだ。

☆51話=2007年6月17日・番外編・四方山話も50話を越えて空を説く

節目の51話目となったので、経緯を振り返ってみた。番外編が多くてすまぬが、四方山ってくらいなのでご容赦を。
音楽コラム・四方山話も月日が経てば増えすぎて、今では過去記事を別置きにしている。現在の有り場所は、
カントリーミュージックサイトに置かれ【Archive/古コラム保存】ページとなっている。過去コラムを開いてみると、
☆第1話=2004年4月1日・四方山話コラム新設のご挨拶・・、とある。そうか、もう三年余の月日が流れたのだ。
始めた時は、三年も続くとは思わなかったし、記事を永続的にネット上に残そうという気持ちもなかった。

一方、タワゴトを書き連ねている日記の方は、どんな経緯を辿っているかというと、
古くからフクロウ日記を何年間も書き続けていたが、レンタル掲示板利用だったから、古い日記は残っていない。
現在のシロフクロウ日記は、一年前からレンタルのfc2ブログを借りており、容量が1ギガも有るから残っている。

日進月歩のインターネット界は、シロフクロウがネット上に情報を公開し始めた頃とは、環境が一変してしまった。
そもそも、ホームページを開設することからして、昔はあらゆる面から障害が大きすぎたけれど、これも様変わりだ。
今では私も、年間に僅か8600円の料金で、独自ドメイン2つとレンタルサーバー二箇所を契約して、運営できている。
ここに、それらの変遷をくどくど書くとキリがないのだが、この十年、本当に目まぐるしく変革した時代であった。
団塊の世代は、変革の時代に生きてきたと言われるが、その晩年はインターネット創成期と重なっている。

したがってマクロ的に見れば、我々団塊の世代を境目として、インターネットに適合した人と、しない人が別れる。
私の周囲を見渡しても、我々の年代以前と以後の世代で、分水嶺を形成しているように思う。
シロフクロウとしては、今時、インターネットで意志疎通を図れない人々とは、付き合うのが面倒になった。

いずれにしても、未来永劫変わらずに残り続けるものなど、何もないのが宇宙の真理というものではある。
そもそも、ビックバンとは無から有を成したものらしい。
それならば、いつの日か、この有限世界もまた、気の遠くなるような時間を経て、無に帰するのが宇宙の真理というものだ。
元々から有るものから宇宙が発生したのであれば、残るであろうが、無から生じたものなら無に帰するべきものだと思う。
現在の宇宙は膨張の一途を辿っているが、そのまま拡大するのか、あるいはどこかて反転して縮小に転ずるのか?

般若心経では空の概念が根幹を成しているのだけれど、宇宙が誕生した時に、無から有を成したのであれば、
気の遠くなるような時間を経た暁には、宇宙は縮小して、ビッグバン以前に戻り、空となる運命にあるのかもしれない。
よって哲学者釈迦が説く、何も得られないし、悟りさえ無いという空の哲学思想が真実を持って迫ってくる。

いつも言うことだが、たかだか40億年もすれば、膨張する太陽に飲み込まれて、地球は消滅するのだし、
そうなる遥か以前に、ホモ・サピエンスは種としての寿命を終えているように思われる。
三億年前に栄えた三葉虫や、現在のゴキブリほどには、種としての寿命が長いとは思えないのが人類である。
生物種としての力量は虫以下かもしれぬ人類が、何を成そうが、地球は今日も回り続け、時間経過と共に消えていく。
よって、シロフクロウが為になることならぬ事、面白い話つまらぬ話し、真理を説こうがタワゴトを書こうが、
流れに浮かぶ泡沫のようなもので、一瞬にして消え去る泡の一つにしか過ぎない。アワワ・・、いと、情けなや。

☆50話=2007年5月17日・美しいものを愛でる心の大切さ

私のような年齢になるとワクワク・ドキドキするようなことは、なかなかあるものではない。恋を例にとれば、
いくつになっても恋はできるし、素敵な異性を見て憧れることもあるにしても、それが発展する事は少ない。
なにせ、そうなる前に、いろいろな事を考えてしまうから、ブレーキがかかってしまうということもあろう。

私のように、我が身を振り返れば、失うことなどたいして無いという身分であっても、一途になれないのだ。
我と我が身を観察すれば、既に恋するに相応しい体面を成していないとか、はては先立つものが不足しているとか、
そういった事柄が多すぎるのだ。自由を奪う事由やら諸般の事情が枚挙にいとまがないほど、次々に出てくる。

わかりやすいところで、恋を例に取ったけれど、何事につけても、体力と気力の衰えはついてまわる。
それでも、若い頃の情熱には及ばないにしても、多少のワクワク・ドキドキが皆無ということはなくて、
自分が贔屓にしている女性歌手の新譜が発売されると心待ちするし、
新しい女性歌手の歌声に耳を傾けるときは、期待に胸躍る心地がして、楽しいものです。

音楽ほどではないにしても、毎年花を咲かせている花咲爺さんとしましては、咲かせた花にも思いは寄せられる。
今、ちょうどバラの花が満開を迎える時節であり、毎朝起きると昨日のツボミが朝日を受けて開花するのを見る。
これとても、感情の起伏からすれば、充分に【ワクワク・ドキドキすること】のヒトツではあるのだ。
このような心情というものは美しくもあり、生きていることと同義であるといっても良い。

美しいものを愛でる気持ちは、何時の時代も変わることなく純粋だし、人々に憧れを抱かせます。
物であれば、昨年から鉱石の趣味を再開したけれど、地球の創世から生まれた、独自の美の世界を持っている。
こんなに美しい結晶が、どういう不思議な力が作用して産出することが可能になったのやらと思う。
まことに天地創造の不思議さと、地球のロマンを体現しているのが、鉱石という不思議な物体である。

私はフィギュアスケート・ファンでもあるから、美しい女性スケーターの姿もまた、憧れの対象である。
ブロンドの髪をした美少女が、氷上で華麗に舞う姿というのは、昔、子供の頃に見たディズニー映画の現実化だ。
この頃は、日本の十代の女の子達が世界トップクラスのフィギュアスケーターとして活躍し、眼を見張るほどだ。
ある女性フィギュアスケーターが言うには「女の子がお姫様になれるのが、フィギュアスケートなの!」。
おっしゃるとおりだ。そういう美しい競技を愛でるのが、フィギュアスケート・ファンの楽しみではある。

人が、美しいものを見てワクワク・ドキドキするというのは、生きていることの証みたいなものではなかろうか。
それは、老若男女に関わりなく、どんな人の心の中にも持ち合わせている、人間らしい感情の発露なのだ。
美しいものを愛でる感情や、愛するものをいとおしいと思う感情などは、
人の持つ心の中でも中心核に収められた、最も美しい心なのではなかろうか。それは大切にすべきものなのだ。

☆49話=2007年4月18日・老いも若きも、使える7万時間を音楽と共に

60才から80才までの人生有効時間はどれくらいか、計算すると1日10時間×365日 ×20年=7万時間となります。
定年にはまだ遠い現在社会の第一線で働いている人も、自分の時間がどれくらいか、計算してみるとよろしい。
今働いている人は一日5時間とすると、20才から60才まで40年間で、定年退職者と同じ7万時間となります。

さて、既に退職した方も、まだ退職してない方も(どっかで聞いたような、言い回しだけれど)
この7万時間をどうやって有効に使うかということは、非常に重要なのであります。
とある男性が、インタビューに答えていたところによれば、
海が好きで、釣り好きだからボートを買ったという。新艇なら1000万だが、中古で300万から500万で買える。
こういう方はいいですなぁ〜。
海とか空に夢を馳せるなんて、傍目にも、いいじゃないですか。定年後は読書!なんてより、遥かにカッコいい。
友達不要を標榜するシロフクロウも、こんな方なら友達になりたいものだ。

団塊世代を狙う商売合戦で、昔やっていたオーディオを定年後に再開したい、という人向けの商品があった。
店の奥まったところに有るのは全部で300万円程度だが、売れ筋は1/10の30万から80万程度だという。
う〜む、その程度ではオーディオが趣味にはならんよ。音楽を楽しむくらいなら、それで間に合うけれどもね。
先の、中古のボートを300万から500万で買って、夢を実現している人に比べると、ずいぶん落ちるなぁ〜。
80万円ほどのオーディオで、昔の夢は実現不可能だと思うよ。モチト、自分に投資をしないと駄目です。

で、現役世代の方々は、先が有るので、じっくりと考えていただくとして、
我々団塊世代は現在進行形でありますから、本来は考えている場合ではなく、実行していなくてはならない。
それでは、世の皆様は、どんな暮らしをしているのかと、ネット検索をかけてみました。
いやぁ〜、インターネットは本当に便利だ。一方的に受け入れるマスメディア情報と違いまして、
こちらから働きかけた知りたい情報にキチンと答えてくれる。特に、ウィキペディア/Wikipediaなんて脱帽もの。

それによると女性達の定年後の暮らしぶりは、どうかというと、これが千年一律のごとく食欲まみれの話ばかり。
色気が駄目なら食い気なのか、女性達の返答は、結構やくたいもなく、食べること以外は、お洒落する程度。
既に性欲が定年で使い物にならないのであれば、食欲だったら定年も無いんだぞ!ということなんだろうか。
映像紹介された50歳以上女性向け体育施設では、小太りオバサン達が食い気で蓄えた脂肪を燃やしておりました。
食っちゃ寝、食っちゃ寝、という文句がありましたが、食い過ぎてはジムに通ってエステに通って、また食う!
これなら綾小路きみまろもギャグネタに困らないわけだ。彼女等を観察すれば、いくらでも漫談ネタが出来る。

それにしても、やっぱり女性は生臭い生き物ですなぁ〜。男には、ついていけないわね。降参だよ。
あら!そういう身も蓋もない、じゃなかった・・身ばかり肥える話をしていたら、肝心の音楽の話しが〜(@o@;)
なんだか、食欲パワーに音楽ネタが吹き飛ばされてしまったけれど、人生有効時間を音楽に使いましょうね。
華のある人生をおくるには、文化芸術は欠かせないのでして、老いも若きも7万時間を音楽と共に暮らしましょう。
特に、団塊世代の方々は、セカンドライフの7万時間を音楽と共に生きていこうと、提言する次第です。

☆48話=2007年3月25日・番外編で、花咲爺さん、花粉症を語る

「本来は無害である植物の花粉が、なぜ人間に被害を与えるのだろう?」という疑問を持つ人が居る。
私は、幼い頃から花と共に生きてきたし、今でも自称花咲おじさんを自認しているから、植物知識はある。
今月始めに還暦を迎えたから、花咲オジサンを卒業して、日本昔話ふうに、めでたく花咲爺さんとなった。
花咲爺さんが森羅万象に想いを致したところによれば、花も花粉も人間に無害である必要性など、有りはしない。
植物にとっては敵である動物を、自分のために利用することはあっても、人間を仲間とはみなしていない。

私の育てているバラにはトゲがあるけれど、生物史上、動物に食われるのを嫌って、トゲを持つことにしたのだ。
バラの刺が証明するように、動物に食われるために植物が存在しているワケではないのは、誰でも異論がなかろう。
それなのに・・だ、
西洋社会の倫理観では、家畜は食べても罪にはならず、自然界の野生動物であるクジラは食ってはいけないという。
これまた、ヒドイ話で、人間に食われるために存在する生物など、動物・植物を含めても、一種たりとも存在しない。
完全な自然保護など、家畜も野菜も含めて、人間が一切食することなく済ませれば、初めて実現する。
地球上の住みやすい土地に、畑を作り、家畜を飼っていること自体、他の動植物の生存を脅かしているのだから。

ありていに言うと、生命ではない石だとて、人間のために存在してはいないし、空気も然りだ。
人間だけが、己のために世界は存在するなどという、不届きな論理を持つなど、笑止千万なのである。
そこにはあくまで、弱肉強食の論理や、利用するもの利用されるものという、生存のまことが有るのみだ。

花咲爺さんの見解では、自然界はそもそも、人間のために存在しているわけでは無い!という、確固たる信念がある。
自然は人間に優しいというのは、手前勝手すぎる。自然食だの菜食主義だの、手前味噌の極みで独りよがりだ。

自然界の厳しい有り様からすれば、植物花粉が人間に被害を与えるのも、当然至極と思う。
窮鼠猫を噛むとか、蜂の一刺し風の言い方をすれば、せめてクシャミの一発二発に、鼻水ぐらい垂らさしてやるっ!
と、考えたとしても不思議ではない。
出来ることなら、忍者の手裏剣のように、木に近付く人間どもに、尖った葉を発射してやりたいのかもしれぬ。
あわよくば、この地球上に済む人間どもを、皆殺しにしてやりたいと、植物達は考えているかもしれないのだ。
植物だって思考能力が有るくらいだから、もし今後、知的な動物が地球上に出現したとすれば、
このような環境破壊をもたらす人類なぞ、全地球上生命体にとって不倶戴天の敵だから、絶滅させなくてはならぬ!。
と考えるだろうと、シロフクロウは予測している。

植物達に言わせれば、京都議定書とかアンタラカンタラ言うよりも、アンタラ人類は、ナニをするのを控えたらどお?
なんちゅーコトを、ブツクサと文句を言っているのかもしれない。
偉い学者の中には、爆発的に増えている人口増加の脅威対策が急務と考えている人は居る。
地球自体に思考能力が有るとする考えがあるけれど、
もし地球が現状を把握しているならば、偉い学者以上に利口なのではなかろうか?ならば地球と致しましては、
このガン細胞か暴走ウィルスみたいな人類という生き物を、そろそろ絶滅させたろかいな!
などと思い始めているのかもしれない。だから、花粉症など、序の口なのだと思った方が良い。

☆47話=2007年2月23日・神の子は河原乞食に憧れる
子供というのは人間では無い、という見解がある。
まだまだ人間と呼ぶには不足すぎて、人間社会の中で様々な教育をされて、人間になるということだ。
おさな子は神の子であると考えるのは、世界のどこでも同様の思想が見られる。
だからこそ古い日本社会においては、無垢なる幼子が死んだ時は、成人とは異なる埋葬をした。

無垢なる胎児や幼子が、一番最初に人間社会の文化に接するのは、やはり音楽であろう。
その最初は母親の心臓の音であろうし、胎教と称して母親が聞かせる音楽であるかもしれない。
女性ボーカリストを崇拝?するシロフクロウとしましては、胎教用に市販されたCDなどを使わずに、
是非とも、お母さん自身の歌を胎児に聞かせて欲しいと思う。歌が下手であってもだ。
世にはさまざまな楽器があるけれど、究極の音楽を奏でることができるのは、人の声であると思う。

胎教時は、そういう母親の無垢なる心情を持つけれど、一旦元気に生まれると態度がコロッと変わる。
教育ママに代表されるように、親子揃って受験競争まっしぐらの暮らしになってしまうと、
もはやそこには、音楽なぞ念頭になく、あらゆる芸術分野の事柄は、受験には役立たないから抹殺される。

先日のfukuroo3ブログにも書いたが、あるとき、オーディオと音楽の楽しさに目覚めた中学生が居た。
中学生は高校受験前であったのだが、父親のほうは母親ほどには息子をスポイルすることは考えないから、
「おお!そんなに音楽が好きなのか、それならお前を良いところに連れて行ってやる」という事になり、
父親がフクロウの巣穴に息子を同伴したのだった。柔らかい感性は即座にオーディオにかぶれた。
彼の母親は、息子が、我がフクロウの巣穴の音響に感化されたとみるや、即刻出入り禁止とした。

つらつら考えるに、無垢なる子供というのは、そんな母親の教育的指導とか、人間社会の欲望から切り離し、
好きなようにさせれば、大多数の子供は、数学や国語よりも、流行の音楽にカブレることになるであろう。
ほっとけば、子供が歌舞音曲に向かう方が多くなるという実験結果は、まだ見聞していないけれどね。
ところが、そういう歌舞音曲は、直ぐに出世とか金儲けに役立たないから、親には人気がないものだ。
昔の日本社会では、息子が歌舞音曲に興味を示すと「そのような河原乞食の真似事など、なりませぬ!」
とて、以後厳禁となる例が多かった。娘に関しては、昔も今も寛容で「最後は嫁入りすれば良いから」
ということで、大目に見られたけれどもね。シロフクロウとしては、つくづく男に生まれるのは損だと思う。
幸せになりたければ、生まれるときに女性として生まれないと、話にならないとさえ思うのである。

どだい、子供というものは、面白いことは率先するが、興味のないことを懸命にやるように出来ておらぬ。
だから、お受験勉強よりは、河原乞食の真似事をするほうが、遥かに楽しいのは自明の理だ。
無垢なる神の子は、本質的に河原乞食系統の文化に憧れるものなのだ。
そんな息子を、無理矢理に我慢させて地獄の特訓じみたことをやらせるのだから、そりゃ〜、倅は堪らんよ。
おまけに男の性欲が爆発する時期とも重なる年頃なのに、それもしゃにむに押さえつけての特訓だ!

昔の人気野球漫画に「巨人の星」なんていうストーリーがありました。
父親の星一徹が、息子の飛雄馬に大リーグギブスなる身体拘束具をつけて鍛えるのだ。ほとんどサディズム!
なにも飛雄馬でなくとも、この年頃の男の子の境遇というものは、ただでさえ悲惨なのである。
音楽やら性欲やら、ありとあらゆる欲望を抑えまくれば、倅は高圧のボイラーに変身しておろう。
どこの息子も大リーグギブス真っ青の、サド&マゾの特訓だ。同じ神の子でも、女の子のようにはまいらぬ。

まぁ、現実に眼を向ければ、ごく一部の人間だけが、好きなことをして暮らせる。
特権階級でもない、普通の若者の大多数が社会に出て仕事をし、お金を稼ぐと言うことの本質とは、
人がやりたがらないことを、成り代わってやる事だ。
だからこそ、その代償としてお金をもらえるということではあるのだ。
若い頃の、サド&マゾの我慢比べじみた暮らしも、その事前訓練と思わないと、やっておられぬかもな。
考えてみれば、人生って面白くないものだ。せめて女性に生まれていればねぇ・・


☆46話=2007年1月22日・セーラー服を着れば心頭滅却出来る?
今日は番外編で、音楽から離れた軽いオハナシです。
真冬にスカートを短めにして肌を出し、登校している女子高校生を見るたびに、寒くないかと思ってしまう。
ええ、まぁ、自分の娘でもないのに、大きなお世話なんだが、シロフクロウはフェミニストなもので・・
ご本人達は、人に見られることを意識して、オミアシを出しているだろうことは、なんとなく解るけれど、

なにせ、全部の女子高校生達が、足を見せてカッコ良いワケではないし、そんな事しても無駄な方が多い。
私の見るところ、97%の女子高校生は、カッコつけても無駄で、あったかい服装にしたらいいのにと思う。
中には、みんなと同じ格好するのは、チト厳しいな、という方も居るわけでして・・ハイ、ドモ・・m(_ _)m

送迎車で出勤する妻に、そういう事を言ったら、本人達はそんなに寒くないのだと言う。ホントかね?
でもまぁ、私が朝の送迎車で見かける千葉市内の制服は、セーラー服では無い学校がほとんどなんですが。

で、数日前のこと、片瀬那奈というタレントか女優か不明の芸能人が、妻と同じような事を言っていた。
「セーラー服を着ていると、寒くないのよ!」これを聞いてfukuroo3は、眼が点になってしまったぞなモシ!
へえっ!究極のエコファッションはセーラー服である!なんちゅうことになるのかもしれぬと、一瞬思った。
戦国時代、織田信長得意の焼き討ち攻撃にあった恵林寺の僧侶、快川国師は、
「心頭滅却すれば火自ずから涼し」とて炎に包まれて焼け死んだという。
ならば現代の女子高校生は「セーラー服さえ着れば寒気どこふく風」てなもんでしょうか。

そうか、女子高校生は、自己顕示欲&自意識過剰で生きているのであり、人目を異常に気にするというか・・
彼女達にとっては、寒い暑いよりも見た目が第一なんだろうね。若さってチュゴイのねっ、たははっ。
「寒いくらいでビビッてたら、女子高校生をやってられるかよっ!」ていうタンカを切る子が居たりして〜(^^;)ゞ
あれは、なんだ・・セーラー服ってのは【無敵の鎧】みたいなもので、彼女達の戦闘服なのかもね。

最近多くなった高校生のブレザー制服だと、人目を気にしなくて良いから、精神的にもダレちゃうのかな?
近年は男の子より女の子が元気が良いけれど、あれは女の子達の、セーラー服効果ってことなんだろうか?
セーラー服なら注目度が高いから、寒いなんて思うヒマは無いとゆうか、気合いが入るってゆうか。
私は「そんなに無理するこたぁ〜無いから、スカートを下げて暖かくしたら良いのに」と、思うワケなのだが。

セーラー服を着ている女子高校生は寒がらない、という事の繋がりで、若い娘だけの話かと思っていたら、
同じ時期に妻から聞いた話だけれど、杖を持ちたがらないお婆さんが居るってゆうのよ!
ババくさくてカッコ悪いから杖は嫌だっていうのよね。で、さらに、手押し車も四輪のは嫌だって言うらしい。
ええ、勿論、当のご本人は、いつ何時、天に召されても不思議はない年齢で、どこから見ても立派な婆さんです。
もはやどこの男も声をかけないし、一瞥もしないだろうに、婆様の自意識過剰は、百才まで続くのですね。
昔の女子高校生は年老いても、自己顕示欲&自意識過剰はシッカリと残っているのか、やれやれ。

そういう、【女の誇り】のようなものを、持ち続けるのは良いことかもしれない。いや、推奨すべきか?
ならばここはひとつ、お婆さんにセーラー服を着せて、ナマ足を出して外出させると、老化防止になるかもね?
そうは言っても、お婆さんにセーラー服を着せてもなぁ〜、そりゃマジイかな、風邪引くか、ヤッパシ・・
セーラー服を着たオバサンやお婆さんでは、気持ち悪いというか、ハタ迷惑というか、ヤメテケレというか・・

やっぱり若いときの特権なんだね、セーラー服ってのは。
前述の片瀬那奈は、自分が高校に入った年に、制服がセーラー服からブレザーに替わってしまったらしい。
片瀬嬢は「ナニすんのよー!セーラー服でいーじゃない!」という風で、エラク憤慨しておりました。
片瀬那奈ちゃんは、生涯においてセーラー服通学する楽しみを奪われてしまったのね、可哀想にのぉ〜。

ちなみに、ご年輩の女性有識者の意見によれば、
「セーラー服なんて、セクハラを助長させ、電車の痴漢行為を招き、百害有って一利も無い。即刻廃止すべし」
と、息巻いておりましたな。ふ〜ん・・年取って保守的になった女性って、ホントに面白くない生き物だね。
な〜にも、世の中の男ども全員を、ロリコン呼ばわりするこたぁ〜、ないんじゃないの〜(+_+)
女の子にセーラー服を着せる事を考えついた、日本人のファッションセンスは、称賛すべきだと思うよ〜(#^.^#)
やっぱり、可愛いいじゃないのさ。あら、こんなこと言うと、私もオバサンにロリコン呼ばわりされるね。


☆45話=2006年12月19日・思いこみによる【刷り込み】
刷り込みとは、鳥類が最初に目にしたものを、生涯、親として認識する特殊な学習能力のことをいうのだけれども、
人間は、間違った情報を、浅はかな思いこみによって、信じ込んでしまうという、困った【能力】が有る。
これは、是正することが難しくて、思いこんでしまった事は、正しい事を示唆されても、拒否反応を起こす。

今は亡きオーディオ評論家の瀬川氏が若い頃、日本中のオーディオ好き達が、間違った【刷り込み】を信じていた。
それは「アメリカ製品などの海外製品は、高価なばかりで繊細で美しい音楽は聞けない」というものだった。
これはラジオ技術(雑誌)という、
当時のオーディオ界に影響力があったメディアが、当時主流であった自作機崇拝を、宣伝したかったのだろう。
雑誌を売らんかな、という意図があり、ことさらに読者等に浸透させたことによる、刷り込み情報であったようだ。
なんのことはない、当時はまだ、技術後進国だった日本国が、日本製が一番良いと信じていたのだから世話はない。
当時だとて国際的なオーディオ技術知識情報は有ったろうに、多くの人達は井の中の蛙で、聞く耳を持たなかった。

当時はシロフクロウも、オーディオに興味を持ちはじめた頃で、年代も瀬川氏と、さほど変わらないけれど、
私の場合は、当時主流の自作派オーディオには無関心だし、機器から出てくる音で判断するという実践派だった。
つまり、当時のオーディオ人間達とは別種生物であった私が、間違い知識を刷り込みされることはなかった。
ウィルスだって、種が違えば感染しないことが多いそうな。シロフクロウさんなど、変人を越して別種生物だもの。

では、現代ではどうかというと、より複雑化しているけれども、巧みに【刷り込みをされている人間】は増えている。
端的に言うと、マスメディアの宣伝に踊らされる軽薄な人間が増えているし、自分の頭で考えられない人が目に付く。
早い話が、JBLパラゴンに対する偏見と無知などは、私の身近な例なのだけれど、
JBLパラゴンは高音も低音も出ないから、現在の音楽ソースは再生出来ないなどという馬鹿げた話しも、その一例だ。
そういう人の使っている、近年の矮小なスピーカーなど、パラゴンと鳴らし比べたら、恐竜と猫ほども違うだろう。

はては、低音ユニットのLE15Hの能率が96デシベルだから、パラゴンの能率は96デシベルだなどと言うのだ。
それなら、パラゴンのエンクロージュアの巨大ホーンは、何のためにあるのか、少しは考えが及ばないのかね?
ユニットの裸特性能率が、そのまま、エンクロージュア入りシステムの能率だと考える脳味噌なぞ、腐っている。
更には、その能率の高さが【それがどうした?】という者までおり、ここまでくると、脳味噌は溶けて流れておる。
今や、想像力の欠如は、日本の政治家から子供に至るまで、蔓延しているのは知っているけれど、嘆かわしい。

また、音楽の好みということにも【刷り込み】というものが見られる。これも少しは考えてみたほうが良い。
自分の慣れ親しんできた音楽ジャンル以外は、なかなか受け付けないというのは、誰しもあろうが、日本人は極端だ。
Jポップス偏重とか、黒人音楽のラップやソウルミュージックが、本当に心の底から日本人と波長が合うものか?
今現在、ラップやソウルにカブレている人は、100%自分と波長が合うと答えるだろう。それは、何年続くか・・

我々の時代、100%音楽が命だと明言した若者が、
オジサンになって、音楽そのものを聞かなくなったのを、私は見聞してきている。だから、30年も経てば答えは出る。
若い頃にカブレまくった音楽を、年取って聞かなくなり、別のジャンルに心変わりしたのであれば、まだ解る。
しかしね、全く聞かなくなったというのは、そりゃどーゆー事だ!え!あの若い頃の熱気は、何だったのだ!
それって、自分の意志薄弱にして、周囲の【刷り込み】により、チョイと音楽にカブレただけだったという証明だ。
まあ、そういうワケで、自分の心を真っ白にして新しい音楽を聞き、血となり肉となる音楽を会得してください。


☆44話=2006年11月18日・映画館の音響【ヴォイス・オブ・ザ・シアター】
この頃、オーディオ掲示板で、映画館の音響の質が、昔より劣っているのではないか、という話が出た。
近年では、性能が良い(機械測定すればという意味での)スピーカーが、映画館で採用されておりまして、
DTSサウンドとか、多チャンネル再生とかに対応していて、最新の映画に適合しています。
しかし、往年の音が良いという評判の映画館では、アルティックのスピーカーが使われていた。これは良い!。
いわゆる、アルティック社製のボイス・オブ・ザ・シアターと呼ばれたA7とかA5という2ウェイシステムだ。
もっと大型のA4やA1-Xなどを含め、十機種が有ったけれど、これらは映画館用のスピーカーとして有名です。

これを、自宅のオーディオ用として使うなんてことをやっているのは、日本人的な発想だが、意外に愛用者は多い。
つまり、業務用とかプロ御用達というと、ありがたがる傾向が、マニアックな日本人には有ることも一因だ。
イギリス人も王室に関わる品物をありがたがるようだが、日本人も宮内庁御用達を・・チト、話がズレたか・・。

欧米人は、ホーン形式のスピーカーを好む日本人を、奇異な目で見ているのだが、
彼等が思うほどには、日本人が自宅の部屋で出している音はひどくはないのだ。なにせ、日本人のやることだから。
ともかくだ、安物の合板製で、コ汚いペンキを塗った、ボイス・オブ・ザ・シアターは、日本では人気者なのです。
ゴミ置き場から出してきたような、汚いA7スピーカーに魅せられた人は多くて、かの美空ひばりもその一人だった。
勿論、美空ひばりがオーディオ・マニアだった訳ではなくて、自分の声を最も忠実に再生している、と評したのだ。

オーディオの性能ウンヌンと言えば、古い2ウェイ方式のA7は、現代のような広帯域型スピーカーには及ばない。
だから、測定器にかけるまでもなく、一聴すれば、安物の現代スピーカーの方が高音域が伸びて、高性能となる。
近年の映画館では、スーパーウーファーも使われているのは当然だから、低音だってA7より低い帯域が出ている。
それでもなお、ボイス・オブ・ザ・シアターの面目躍如たるアルティックサウンドには、人々がひれ伏す力量が有る。
このシロフクロウだって、こんな狭い家に住んでおらず、広いシアタールームがあれば、コ汚いA7を買いに行く。

世の中、性能が良いというだけのスピーカーは、掃いて捨てるほど存在するけれど、人を魅了するかは別問題なのだ。
掃いて捨てるほど美女は居ても、男を虜にするほどの美女は、ほんの一握りであるというのと、同じ事である。
アラ、また脱線。
つまり、料理で言えば、栄養価が右から左まで(上から下でもいいんだが・・)まんべんなく摂取出来る料理と、
最も食べたいものを美味しく食わせる料理との違いである、とでも言ったほうが早い。
広帯域で高性能のスピーカーよりは、人間の声の帯域を魅力的に聞かせるほうが、説得力が有るということなのだ。


☆43話=2006年10月14日・秋のモーツァルトとお星様

秋の青空から降りそそぐ日射しが、フクロウの巣穴に射し込んでいます。
朝とも昼とも言えない時間帯に、アンネ・ゾフィー・ムターの新譜・モーツァルトのソナタを聴いています。
本当のところは、こんな時間帯よりは、秋の夜更けに、ヴィォロンの音色にひたぶるに耳を傾けたいのだ。
一軒家とはいえ市街地住まいだから、近隣騒音を考えて、夜は音量を下げざるを得ないのが、ひたぶるに悲しい。

私の入れたコーヒーをすすりつつ、横で一緒にムターのモーツァルトを聴いている旦那フクロウ(妻)が言う
「ムターさんのモーツァルトって、凄く現代的ね・・グリュミオーなんかと比べると」
「ふむ・・、グリュミオーの時代には、彼の演奏はエラク現代的だと思われていたかもしれんよ」
あらゆる事象には、その時代ならではの見方とか考え方が、否応なしに反映されるものだろうし、
人間の作り出す文化芸術というのは、歴史を越えて不変の価値を持ち続けることが難しいということだろう。
歴史という大波に洗われて削られ砕かれて、なおかつ原型をとどめるというのは、並大抵の確かさではない。

だから、モーツァルト大好きの私からすると、モーツァルトの価値は不変であって、凄いなと、単純に思う。
多分、バッハやベートーベンが聴かれなくなる何千年後かになっても、モーツァルトは人々に愛されると思う。
未来永劫変わらぬ愛と誓い合った二人が、たやすく別離を選ぶのと比べると、エライ違いだと思う。
比べるのが間違っているのは、重々承知ではあるが、どちらも同じ人間の所行だというのが、不思議ではある。
私は常々、人間など猿に毛の生えた程度の【我ながら、メチャクチャな物言いに倒れそうになる】生き物だし、
不変の真理にはほど遠い、軽々な存在だと思っているから、さもありなんと思う。

宇宙は塵芥で出来上がっているという人も居れば、ロマンティックに、私達も星の一部で星なのだという人もいる。
できれば私も、夢見る少女のごとく脳天気に「私達って、お星様なんだわぁ〜!」と思えたら幸せなのにねぇ〜。
ペシミストのシロフクロウさんは、人間は宇宙のゴミだという見解に近い。
近いというよりも、ゴミ以下の存在だとさえ思う。せめてゴミなら、この地球環境を破壊するようなことはすまい。

そしてまた、綺麗な言い方では、モーツァルトは夜空に輝く星であろうし、その他大勢の我々は地上の星なのだろう。
塵芥にも、随分と格差があるものだと思うから、地上の星というのはナルシスト過ぎると思うんだけれどもね。


☆42話=2006年9月20日・まとめ買いしたCDは大ハズレ

アメリカ・アマゾンコムにジャズ・ボーカルのアルバムを注文した後、なかなか発送されなかった。
通販サイドで「○○様には、これがお薦めです」と私に言ってきたものだし、在庫は有ると表示されていた。
それなのに、延々と待たすとは何事だ!オマエは有りもしない商品を、持っていそうなフリしておったのか。
とまぁ、思うのであるが、後で配達後に発送元を見たら、ドイツ・アマゾンから発送されていた。ナルホド。
つまり、アメリカ・アマゾンには在庫がないが、地球上のアマゾン各地の、どこかには有るらしい(笑)

これは、私が女性カントリー歌手のCDを買い漁っていることと無縁ではない。通販サイドの考えでは、
コヤツは、女性歌手であれば、カントリーミュージックでなくても、買うであろうと思って薦めたのだろう。
先方の思惑は外れてはいない。私は女性ジャズボーカルも聞くことは聞くし、LPもCDも、愛聴盤は有る。
だが、決定的な【音質】という問題が有る。昔のジャズはもう過去の音楽であって、高音質録音では無い。
最新のジャズ録音よりは、過去のジャズ録音ディスクに、良いものが多いのが、困ったところなのだ。
だから、未だにジャズ好きのオーディオマニアは、LP再生に重きを置いているのだし、当然とも思う。

ところが、一旦カントリー音楽で音質の良い最新録音に親しんでいる私には、
古い録音では、とても我慢ならなくなる時がある。一旦、贅沢を味わった人間だから、どうしょうもない。
最新のカントリーミュージックだとて、みんなが私と同じように聞けている訳ではない。装置の違いがある。
だから、他者の音楽レビューを読むと、もし、この人に、私の装置で聞かせたら、評価は変わるとも思う。
音楽とは、あらゆる芸術分野の中でも、贅沢度合いが極まることでは、最たるものであろう。
それゆえに、高音質の再生音を知った者は、普通の音では、耐えられなくなるし、有る意味では不幸なのだ。
高音質オーディオ再生は、誰でも体験できない世界ではあるが、知ったがために不幸だとも言える。
こんな世界を知らずに、貧弱な再生装置で音楽を楽しんでいる方が良い場合も有ると思う。
イマジネーションによって、無限の広がりを楽しんでいるほうが、幸せだとも言えるのだ。
音質が不足するところは、自らの豊かなイマジネーションにより、充分に補えるし、
それには過去の生演奏体験が役立つだろう。
オーディオ地獄を知ることなく、無事平穏に暮らしている衆生は、平和だと思うところはある。

例のごとく、話は飛んだけれど、今回届いたジャズボーカルCDは、さんざん待たされたわりには、
なんとまぁ、私の基準からすれば、ことごとく落第ばかりであったのだ。
ミュージカル系のジャズ・ボーカリストは、ウルサイほどに声を張り上げるが、美しくは無かった。
声の悪さが気にならないジャズシンガーというのは居る筈だが、この度は、声も悪し、歌も悪しであった。
音が悪くても、良いジャズボーカルというのは有るので、それを期待して買ったのに、残念でした。
さんざん待たされたあげくに、こういうCDばかりでは、落胆の度合いは、さらに高まった。
踏んだり蹴ったりとゆうか、まことに残念な出来事でありました。
今日は、今朝から10枚ほどのジャズボーカルCDを聞くつもりが、3枚ほどで耐えきれずにギブアップ!

そういうことで、今、口直しの最中です。
女性カントリー歌手の中から、選り抜きの美声中の美声歌手を、次々に取りだして、片っ端からかけている。
最新のカントリーミュージックは、古いジャズと違って、音が良いし、選り抜きの美声歌手の声は耳に優しい。
気分はもう、口直しの域を超えており、敵討ちに近い気分になっている。
ふと思ったけれど、言うなれば、ジャズ・ボーカルとは、漬け物になって発酵した野菜であり、
カントリーボーカルは、畑から抜いた野菜というところか。もはや、両者は別物の食品なのである。
シロフクロウは、漬け物は嫌いだ!


☆41話=2006年8月22日・LP再生で音楽を聞く楽しみ

音楽ソースが、アナログレコード【LP】からCD主体になってしまって、長い年月が過ぎた。
できれば、アナログレコード再生を止めてしまい、CD再生だけにすると、実用上は好ましいことばかりだ。
第一、LPは増えないので、ソース全体からみれば、所有するディスクの割合は下がり続ける一方である。
新しいCD録音のほうが音も良いし。それでも、LP再生を止めてしまわない理由は、二つ有る。

最初の理由はというと、
オーディオは面白いもので、機器に使われている物質の固有音が、スピーカーから出てくるのだ。
特に、LP再生では、CDよりも、物質の固有音が如実に再生音に乗り、それが心地良さをもたらす。
LPプレーヤー本体に上質の材木を使えば、その木材の音がするし、レコードプレーヤーのどこかに、
なにがしかの材質を使ったものを加えて、その後にレコード再生をすると、
ちゃんと【なにがしかの材質】の音が、再生音に反映されるといった具合である。
私の経験一例では、プラッターにテフロン加工のものを使うと、その物質の音が乗って聞こえた。
そういう面白さは、CD再生には無いし、その心地良い材質感がもたらす効果も、楽しみのひとつだ。

我々オーディオ好きは、録音されたデータ以外にも、そういった、もろもろの音響要因を加味した音を再生し、
それがために、生の音楽よりも心地良く音楽を楽しんでいるのだと思う。
部屋の音色の違いもあろうし、機器に使われた、もろもろの物質による音質のブレンドを聞いている訳だ。
そういう傾向は、CD再生よりも、LP再生時に、色濃く反映される。
そのためもあろうが、LP再生のほうが良い音がするという人が沢山居て、中にはCDを聞かない人も居る。

もう一つ、シロフクロウがLP再生を止められない理由があり、こちらが理由としては重きを成す。
フクロウの巣穴のご主人様である【パラゴン姫】が、LP再生を好む?!らしいので、止められないのだ。
そうなのよ!私がどうのこうのというより、
どうやらJBLパラゴンにとって、LP再生とは必要微量栄養素らしいのである。
人間だって、三大栄養素だけでは不足だという。だから、たぶん、ビタミンCみたいなものなんだろう。
LPを何枚か再生した後で、CDを再生すると、エラク御機嫌よく【歌ってくれる】のが、その証拠です。
その理由は解らないし、知ろうとも思わないが、パラゴン姫がLP再生音が大好きな事が解っておれば良い。
それがビタミンCでもDでも、Eではないかと思っている。
姫様が笑顔ならば、シモベの私は満足なので、小難しい理屈なんて知らなくても、なんら困りはしない。
そーゆーことは、オーディオマニアと呼ばれる人達にまかせておけば良い事柄だ。


☆40話=2006年7月20日・カントリーミュージック界のアーティスト輩出

アメリカ音楽旅行に行った時に、流石に欧米の音楽文化は、深さと奥行きがあると感じ入ったことがある。
それは普通の人々が、見事な楽器演奏をすることだった。
グランド・オール・オープリーを観にオープリー劇場に行くと、外では素人の人達のブルーグラス演奏がある。
日本人でも、ブルーグラス演奏をする人達が居て、その腕前はなかなかのものなのだが、流石に本場であった。
アパラチア山系を訪れたときも、人々が演奏するブルーグラスミュージックは、流石に本場だと思わされた。

ブルーグラスに限らず、カントリーミュージックでプロの演奏活動をする人達は、先祖代々の音楽家が多い。
でも、それ以外の普通の家庭でも、子供が音楽をやりたいと言えば、地域社会でサポートする体勢が有る。
今の7月は、アメリカも子供達の夏休みシーズンだが、音楽キャンプともいうべき催しがある。
家族ぐるみで、何日間かキャンプ場に行き、カントリーミュージックや、ブルーグラスミュージックを楽しみ、
しつらえた特設テントでは、プロの演奏活動をしている人が、子供達に演奏技術と共に伝統音楽を教えてくれる。
日本で、なにかしらの音楽活動をしようとすると、大人も子供も【お稽古ごと】になって有料化されている。
そして、イマイチ、日本の音楽文化は、根が浅い植物のようで、枝葉の茂り具合が貧相だと思うのだ。
みんなアメリカが良いということではないが、音楽システムの違いが際立つ。
アメリカ社会では、自分達の伝統音楽を伝えることを、自然な形で続けているし、特別だとも思っていない。
ごく普通の暮らしと楽しみの延長として、カントリーミュージックを連綿と伝えているところが良い。
だから、10代の子供が自分で作詞作曲した歌をひっさげて、演奏も自分でこなして、颯爽とデビューする。
そんなことは珍しくはなく、ドリー・パートンなどは、僅か11才でプロとして演奏活動を始めている。
日本のような音楽環境では、10代のシンガーソングライターが、続々と輩出されることは無いだろう。

私の子供時代は、ピアノはおろか、ギターも駄目で、せいぜいがハーモニカくらいであった。
高校生になると、エレキギターを抱えてバンドを組む者も出てきたが、当時の私はそれどころではなかった。
音楽というのは、やはり贅沢なもので、暮らしと心の両方のゆとりがないと、やっていられないものだと思う。
そして社会に出ると、私の興味は演奏する方向よりも、オーディオで音楽を楽しむことに傾倒してしまった。
それでも、登山するときにはブルースハーモニカを持参して、人気のない山の頂上で吹いていたけれど。

今の日本国は豊かになり、たいていの子供は、ありとあらゆる楽器を買ってもらえる。
中には豊かでない家庭だってあるだろうから、例外はあるだろうが、一般にはギターくらいは大丈夫だろう。
なにせ、子供に買い与えたピアノが、使われないままに大量処分されるくらいだから、日本は豊かになった。
それなのに、先に述べたように、音楽家が続々と輩出される状況には無いところを見ると、
我が国の音楽文化の底が浅いからだろう。家庭内に音楽が必須ではないお宅が多いのを見ても、それは解る。

それにしても、つくづく思うのだが、年老いてから、豊かな日本になった恩恵を受けられた事は幸いだった。
アメリカに音楽旅行をして、本場のカントリーミュージックを満喫できたことは、得難い体験だった。
ディープ・サウスとは、カントリーミュージックが生まれたアパラチア山系からニューオーリンズあたりのこと。
この辺は、各種旅行ツアーが組まれるような地域ではないし、普通の日本人が行かない土地柄です。
実際、現地在住の日本企業の日本人社員を除けば、日本人は少なく、
私達のように、自由気ままにレンタカーで走り回っている日本人旅行者は、ほとんどみかけなかった。
昨年の二度目のアメリカ音楽旅行では、航空券・ホテル・チケットなど、日本でインターネット予約が出来きて、
時代の移り変わりを感じたし、なんて便利になったものだろうと思った。それでも言葉の問題は残る。
全ては我が妻の旦那フクロウがお膳立てをしてくれたおかげである。ツアー旅行では到底不可能な旅だった。
妻による恩恵は、現地に行ってからのレンタカー変更や、コンサートなどの各種チケットなど多岐に渡る。
おかげで、上滑りなツアー旅行とは全く違う、ディープなアメリカ音楽旅行が出来た。
元々健康ではない私が、早期退職して長生き出来たことから、実現した旅行とも言える。我が愛妻に感謝!。

☆39話=2006年6月16日・成長を遂げたロンダ・ヴィンセント

この四方山話の第32話で、フィメールブルーグラスのことを、熱く語ったのは、2005年12月のことだった。
そして、Rhonda Vincentの5月23日発売最新アルバムを大絶賛掲載したのが2006年5月30日のことでした。
新作はタイトルからして、女性ブルーグラッサーここにあり! を宣言しているようで、喝采を贈りたい。
ロンダ・ヴィンセントの新アルバムは、半月間、毎日聴いているけれど、まだ飽きがこないほどの愛聴盤です。
こちらが私のメイン紹介ページ→ 【ALL AMERICAN BLUEGRASS GIRL】 です。
このアルバムは、自分のバンドを持つに至って以来、成長著しいロンダが放った、会心の一作です。

女性ブルーグラス界は今、一方にアリソン・クラウス、もう一方には、このロンダ・ヴィンセントを擁しており、
今や、この両雄によって全ブルーグラス界に、新しい旋風を巻き起こしている。実に喜ばしい出来事です。
既存の男性ブルーグラッサーが直球しか投げられない投手なら、女性の両雄は自在に変化球を投げわける。
ロンダの新譜や、この一つ前のライブアルバムを聴いて、私が新しい風を感じることは度々のことです。
アグレッシブでありながら、音楽全体がうねるようにスィングするのです。これはジャズスィングとは違う。
全体がトルネード(竜巻)のようにうねって青空に吹き抜ける香り高い風のような音楽で、実に素晴らしい。
ブルーグラスの薫風と呼びたいほどだ。いいねぇ!実に心地良いではないか。ブルーグラスはこうでなくては。
トラディショナルな男性ブルーグラッサーはアグレッシブであっても、音楽全体がうねる感じを持っていない。

もうひとつ指摘するならば、女性両雄の個性が違う事です。一方の雄であるアリソン・クラウスが柔とすれば、
ロンダ・ヴィンセントは剛であるという比較論も成り立つだろう。この二人のオリジナリティは独自です。
私の持論では、カントリー音楽の真髄は、究極の形としてBluegrass musicに行き着くと言い続けてきました。
その意味でアリソンとロンダの二人への期待は大きい。そして、これからの活躍に大声援を送りたい。

ロンダの新アルバムと同時期に手に入れたディキシー・チックスのCDは、アメリカ西海岸録音のせいか、
さらにブルーグラスからは遠ざかってしまい、アコーステイックな音造りは影を潜めてしまった。
そういう都会の匂いのするロック音響は、私のようなオーディオ愛好者の常食とは成り得ない。
今月の新刊ステレオサウンド誌に、このディキシー・チックスのCDがカントリーとして紹介されていた。
これを取り上げた選者のセンスに、思い切りがっかりするのだが、ウケ狙いなのか、カントリーに無知なのか。
ジャンル分けを気にしない私であるが、どうせ紹介するならば、ロンダのALL AMERICAN BLUEGRASS GIRLを
近来希にみる好録音CDとして取り上げて欲しかった。

話を戻して、私は、アリソン・クラウスとユニオンステーションによる歴史的名盤「NEW FAVORITE」が、
フィメールブルーグラス新品種誕生の元となり、これこそが新ブルーグラス品種の、種の起源であるとした。
この度のロンダ新譜CD【 ALL AMERICAN BLUEGRASS GIRL】もまた、この系譜の最先端に花開いたものだ。
このCDが、多くの人々に流布されて絶賛され、音楽界のビッグ・タイトルを獲得することを予言する。

☆38話=2006年5月21日・待たれるブルーグラス・ミューズの登場

昨今の女性ブルーグラス界では、アリソン・クラウスとロンダ・ヴィンセントが両雄といえよう。
どちらも自分自身のバンドを持ち、他のアーティストにはない独自のスタイルを築いている。
男性ブルーグラッサーの多くが、トラディショナルなブルーグラス・スタイルから抜け出せない中で、
個性的な音楽を創り続けている姿勢には、敬意を表したい。未来は女性達にかかっている。
しかし、お二人の活躍は、プレスリーやビートルズ並みの、新しい潮流を生むほどには至っていません。
やはり、壁を突き抜けるほどの音楽の巨人が登場しないと、大きい奔流は生まれないということでしょう。
よって私は、女性ブルーグラッサーの中から、救世主としての、ミューズの登場を心待ちにしている。

今月18日に、男性ブルーグラッサー紹介ページに、故ジョン・ハートフォードの特集を掲載したのだが、
ジョン翁の歌を何度も聞けば聞くほど、ボーカリストの重要性を再認識したことだった。
ブルーグラスにおいては、優れたボーカリストの存在無くしては、世に広まる事は出来ないと思う。
どんなに楽器演奏が上手く、名盤と言われるインストゥルメンタルCDを発売し、絶賛されたとしても、
それは一部の人達の好みを満足させるにとどまる。自分で演奏する人達には、大受けするだろうが、
より大多数の音楽ファンの心を捉えることはできない。音楽は人の声こそが最高のものだからだ。

日本人は特に、楽器偏重傾向が強く、クラシック界でも、歌の入るオペラよりは器楽曲が好まれるようだ。
クラシック音楽というと、日本人はシンフォニーとかコンチェルトを思い浮かべるのを見ても解る。
しかし、西洋音楽が熟成されたイタリアにおいては歌手の人気が高く、最高の音楽芸術はオペラとされる。
指揮者や演奏者より、歌手の力が大きかったことは良く知られているが、それが人気度を示していた。

世界にブルーグラスミュージックが受け入れられて、ポピュラー化するには、大スター歌手が必要です。
今までの常識を覆すほどの力量のある、女性ブルーグラッサーが登場するのを待つしかないと、私は思っている。
男性ブルーグラッサーには、そんな可能性は低すぎて、期待するだけ無駄だと思っています。
ミューズのごとき女性の大スター歌手が輩出されれば、古いブルーグラスだけに固執する人達も、引きずられる。
雪崩をうつように、ニュー・ブルーグラスの奔流に巻き込まれる事態になれば、状況は一変するだろう。
流れから取り残された、従来のブルーグラッサーは、支流にとどまって、今までどおりの伝統を守れば良い。
それはそれで、意義深いことではあるのだし。
クラシックの演奏家から、若い人達が新しいブルーグラスに参画して、大奔流を形成してくれないだろうか。
私としては、美人で声が良くて演奏も上手い、ブルーグラス界のミューズが登場するのを、待ち続けている。

☆37話=2006年4月18日・番外編・鉱石の趣味は面白い!

今月の9日から4泊5日で京都旅行に行きまして、古都の桜を愛でたのですが、コトは古都の桜だけで収まらなかった。
なぜか、新京極の土産店で水晶二個を買い求めたのが運の尽き、
少年の頃に熱中していた「石集め」の趣味を呼び起こしてしまったのだった。
なので、今回は、音楽四方山話の番外版にて鉱石のオハナシです。帰宅して二個の水晶を眺めているだけでは物足りなくて、
ネット検索をかけたら、鉱石販売業者を初めとして、個人のブログページまで、いろいろと覗くことが出来ました。
結構面白かったんだわぁ〜。

さて、その経緯で、ミネラルショーという鉱石販売会が催され、この日本の大都市では年数回も開催されており、
海外鉱石業者も売り込みに来ておることが解った。買う方も好き者(ヤらしい文字だから数寄者にしとくか・・)達が
ワンサと押し掛けて大盛況なんだという。ふ〜む、知らなんだ知らなんだ〜、トリビアの、へぇ〜スイッチ叩きまくり状態です。
世捨て人状態のシロフクロウは、鉱石集めなんていうと、昔のイメージしか無かったモンね。
つまり、ガッコの先生が休みの度にチューリップ帽子にリュックを背負い、小型ハンマーを持って海山川をウロついている・・
これが鉱石趣味かと思っておりました。今や若い娘達が、ミネラルショーで買った鉱石を利口に利用している。
既に綺麗に磨いた石を集めて、繋ぎ合わせて腕輪にしたり、順序を入れ替えて変化を付けたり、
見てくれの良い鉱石なら、数千円の安い鉱石を宝石替わりにして、指輪やイヤリングにして楽しんでいる。
鉱石をウン十万かウン百万の宝石のようにして使うなんて、若い人はやっぱり、なかなかお洒落だね。

そりゃね、素人はダイヤと水晶の区別は付かないから、友達には、赤ければルビーで、青いのはサファイアと言っておけば、
相手も合わせて、卓球の愛ちゃんか何処かのプロレスラー並みに「さぁ〜!ふぁいあ〜っ!」と叫んでくれるかもしれない。
暇話休題、指輪の台作りの費用は、意外と安くて既存のデザインを使うなら1万円以下で加工してくれる店があり、
金の地金代金を足しても、そんなに高額にはならないという。まぁ、金の指輪部分は、別の石を乗せ替えたりも出来るんだし、
ゴールドは何回でも使えるから無駄にはならない。
そしてまた、鉱石の種類なんて、覚えきれないほどあるが、指輪の石になる美麗なものだって、ナンボでも有るのでした。
ここで私は、満タンになったへぇ〜スイッチを叩き壊したくなりましたデスわ。
う〜む、現代はチュゴイ!、うら若きオネーチャンまでもが鉱石ですかー!ワシャ知らなんだ〜!

そうは言っても、昔ながらの元祖鉱石趣味(チューリップ帽子&リュック&鉱石ハンマー)の三種の神器世界も健在です。
とあるブログを訪れると{今年のテーマはズバリ「水晶」}とある。
ほほう!、どれどれ、と、興味津々のシロフクロウが当ブログを覗いてみると、
その掲載写真は小さくて人々の顔も判別しないほど小さくて、
机の上に並んだ水晶なんて、白いゴミを拡げているようにしか見えないじゃありませんか。
わうっ!最初のお洒落な若いネーチャンのブログとはエライ違いだ。格差が凄過ぎるぞなもし!
オッサン達は、いつの時代もダサイのぉお〜。{今年のテーマはズバリ「ホームレス」}みたいに見えるわさ。
そーゆー写真を拝見すると、鉱物趣味がゴミ漁り趣味に見えてしまうではないか。
ホームレス予備軍に見えるような写真を掲載するのは、いかがなものか・・なんちって政治家口調。

ともかくだ、元祖鉱石趣味の皆様も、モチト、読者が喜ぶクローズアップの写真にしてくれぬものかね。
本来の目的は、好物オタクの皆様による、鉱物オタクの皆様のためのブログなのは、重々承知しておるけれど、
私のような通りがかりのミーハーな人も、チッとは楽しませてくれぃ!
恥ずかしながら私なんて、鉱物の名称さえ、この歳になってから覚えたくもないグータラ爺さんなのだし、
鉱物を見る基準といえば、その鉱物がどれだけキレイか!という、その一点に尽きるのであります。
これこそが鉱物の中の好物を選ぶ基準なんであります。
漫談家の黄身麻呂が、あら、違った・・これは、腹の脂身たっぷりのオレのことだ。
以前にAトークに覚えさせた文字変換が、まだ生きておったのだね。
ほんにまぁ〜、こんぴーたークンは融通が効かない困ったぴーたクンだわい。こんな字句は忘れろっての!
話を戻してっ・・と、漫談の綾小路君麻呂は言うのである・・
「人を見かけで判断してはいけません!大事なのは見た目です!」たははっ、左様か・・そうよね。なんたって美人の勝ちだ。
じゃによって、鉱石だって同様だ。どんなに家柄良く由緒正しく、いわれのある名石や銘石よりも、美しさでナンボです。
と、断言しちゃう。いいのよ、文化が大衆化すれば、ミーハーな世界も、ついでに生まれてしまうものなのだ。

で、話を戻すが、元祖鉱石趣味の方々は、鉱石マニアの鏡のような方々ですから、自分で鉱石を掘りに行くのです。
私のようなミーハー鉱石好きは、ミネラルショーで石を買う安易な方向に走るけれど、この方々は由緒正しき正統派ですから、
ちゃんと自分でバンバンするのであります。日本の野山などにバンバン遠征してデスね、
それこそ♪野を越え山越え遙々と〜♪「掘り出し物」を掘り当てる旅に出る。という崇高なる行為に及んでいるのです。
エライ!流石だ。私なんて、真似が出来ん!首都圏の電車にも、一人では、よう乗らないシロフクロウとはエライ違いだ。
それにしても、鉱(好)物を探し当てるというのは、その確率からして、宝くじに近いのでは?なんだか、気が遠くなりそうだ。
いや、私の健康度なら、気が遠くなる前に、気絶&悶絶しておるな!。
不肖シロフクロウがそんなことをしたらばデスよ・・
山に入りては、行き倒れて野の鳥獣の餌となって、白骨を晒すことになり、DNA鑑定を受ける世話となるやもしれぬではないか。
川に入りては、行き倒れて水中は群魚の餌、水上部はカラスの餌となり、これまた白骨を晒して、世間を騒す元凶になってしまう。
やっぱりなんだ・・電車に乗って安楽に行こう。新宿で6月に開催される国際ミネラルアート&ジェム展に出かけることにします。
ヤワな花咲爺さんが、野山にまで行くのはイカンな、野山は・・。川にも、よう行かんな・・展示即売会に限るわネ。


☆36話=2006年3月17日・イナバウアー的な音楽とオーディオの勧め

すっかり有名になってしまった、荒川静香選手のイナバウアーだが、オリジナルの技とは一変しており、
彼女独特のものに進化している。
さて、そのイナバウアーは、得点につながらなくても、自分の大切にしている表現をしたいという思いから、
荒川選手がプログラムに取り入れたという。フィギュアスケートの採点で、得点にならないのは解っている。
でも、たとえ得点にならずとも、人を感動させるのならやる!という姿勢が素晴らしいではないか。
こういうことは、他のジャンルでも大切なことだろう。そもそも、文化は、必要不可欠なものでは無い部分にこそ、
その真髄が現れるものである。
生活に必要でない事柄にこそ、文化のエッセンスがこめられているという実例は、結構多いのではなかろうか。
女性の化粧など最たるものかな、などと、無くても困らずに、生活していける事柄を、いろいろと挙げてみたりした。

オーディオの場合は最初から、得点競技ではないが、なぜかオーディオマニアという人種は、
科学的な測定だの、技術的な事柄を持ち出しては、あーたらこーたらとウンチクを述べる人が多い。
私はそういう事柄は無視する立場の人間で、スピーカーの性能とか周波数特性とか、
そういう機械としての優劣以前に大切なものがあると思っている。音楽を楽しく聞かせなくては、失格だと思うのだ。
つまり、聴く人を楽しくさせる、あるいは人を感動させる、そういう部分が、もっと尊重されるべきだと思っている。
「心地良く聴かせる」ということは、大変な価値を持つ要素だろう。

そもそも、スピーカーの制作技術が進化すれば、それだけで魅力的な音を奏でるスピーカーが出来るとは限らない。
高度な機械工作が可能になれば、得点は伸びるであろうが、だからといって魅力的なスピーカーであるとは限らないのだ。
人を感動させるには、技術点よりは芸術点に重きがおかれなくてはならない。フィギュアスケートも、そうあって欲しい。
だから、こと、オーディオの世界に関しては、芸術と同様に、古いものは新しいものに及ばない、
と断言できないことが多々有るのだ。

当家のJBLパラゴンは楽器型スピーカーですから、まさにイナバウアー的な要素を沢山含んでいる。
スピーカーとしての性能得点に繋がらないところに、当家のパラゴンの真価がある。
あえて私が擬人的にパラゴン姫と呼んでいるように、スピーカー調整を、姫様の歌いたいように歌わせた結果、
正確な音楽変換器としては、不正確な音響になっているかもしれない。でも、人に聞かせるためのオーディオではないから、
これで一向に構わない。シロフクロウ一人のためにだけ、お姫様は歌ってくれているのだから、他人の批評も気にならない。
相思相愛、至福はここに極まれり、なのである。
いいじゃないの幸せならば、という歌詞が有ったけれど、パラゴン姫様が幸せに歌ってくれれば、それで良しとする。
姫様のしもべとしては「へへっ!左様でございますか、御拝聴させていただきます」とて、伏し拝むように聞く。
チマチマとした小姑的な文句など、恐れ多いから言わない。相思相愛ではないオーディオは不幸である。

☆35話=2006年2月26日・横道にそれてトリノオリンピックの話し

トリノオリンピックが、今日、閉会式を迎える。大のフィギュアスケート・ファンであるシロフクロウは楽しかった。
そりゃ、荒川静香選手の金メダルも喜ばしいのだけれど、綺麗な女性選手の姿を沢山見られたことが、嬉しかった。
私はミーハーなお茶の間フィギュアスケートファンですから、沢山の美人アスリートをウットリと眺めたいのです。
日本でグランプリファイナル大会が行われて、浅田真央選手の優勝が話題をさらいましたね。
あんなに可愛らしくて、世界一になったのですから、世界が大騒ぎするのも無理は無いけれど、年齢が数ヶ月不足で
オリンピック出場ができませんでした。そして、グランプリファイナルでは、世界一流のスケーターが集まったのに、
ほとんどの外国人選手の演技が、テレビで見られませんでした。有望な日本選手が出ない種目には冷淡なのです。
日本人の島国根性を見る思いがした。自国が負けたサッカー試合は放映しない国も有るらしいが、似てませんかね。

暇話休題、今度のトリノオリンピックこそは、全ての外国人選手の演技が見られると、ワクワクしておりました。
真夜中に録画したビデオを見る時もありましたが、朝四時起きでライブ放送をホームシアターで見た時もある。
アイスダンス・フリー決勝は良かった!私がトリノの白薔薇と名付けたナフカ・タチアナ選手が金メダル獲得です。
トリノの赤薔薇と名付けたタニス・ベルピン選手が銀メダルで、これまた良かったです。ウルウル眼で見てました。
でもまぁ、美人コンテストじゃありませんけれどね。第一、彼女等はクラシック・バレエダンサーと同様でして、
激しい運動をしてますから、体脂肪なんて燃え尽きてしまっています。フィギュア衣装には、バストが有りますよ!
という風なデザインになっていますけれど、一流女性アスリートともなれば「燃え尽き症候群」とでも言いますか、
ブラだって不要なくらいのペチャパイになっております。アイスリンクの上では、ウットリするほど美しいのですが、
鍛え上げた筋肉がミッシリと付いて、筋張っていそうだから、あんまり近寄って見ない方が良いかもね。

暫くはオリンピックにまみれてしまい、カントリー女性歌手応援サイトも、更新がおろそかになってしまいました。
さらに、おろそかになったのは、ブルーグラス・ミュージックの方で、女性ブルーグラッサーの整理&発表が滞った。
22日には、風邪をひいてしまい、次の日に病院に行ったけれど、三日経ってもチーとも良くなっておらず、
シロフクロウのおじさんは、鼻水をチュルリラァ〜とタラシながら、荒川選手の金メダル授賞式を眺めておりました。
心に感激の涙、鼻にはウィルス鼻汁、ま、いいじゃないですか・・激しく泣くと鼻汁が出る人も居るらしいしさ(∩.∩)
こういう時に限って、四箇所の掲示板を、ティーカップ社レンタルのものから、自前プロバイダのものに取り換えた。
風邪で鼻汁まみれの頭は、ボォオオーッと汽笛一声、前頭葉を麻痺させてしまい、掲示板設定もトチリまくった。
それに、今月からカントリー音楽サイトとは別に、有料でオーディオサイト用に300メガ容量を借りましたので、
これにともなう各ページの引っ越し作業と各種設定もいろいろとあったが、これまた前記同様にトチリまくった。

オリンピックの距離スキー競技で走っている選手を見ると、風邪でなくても、鼻汁か涎まみれになっていますな。
あのようなバヤイにですよ、こーゆー各種設定などをやらせたらば、トチリまくると思いますデスわ。誰でも・・
なんかこう、思考回路が鼻汁でメルトダウンされるとゆうか、ええ、ほら、エジブトのミイラ造りをする人達は、
脳味噌というのは、鼻汁を製造するもので、重要視しなかったらしいですね。
だから、心臓などの臓器は、大切に陶器壺に入れて、ミイラ室に保管したけれど、脳味噌は捨ててしまったらしい。
え?なんで、そーゆーところに話が飛ぶのかって?いや、スマンね。本人も、風邪のせいで、ようワカランのだ。
脳味噌が鼻汁で溶かされたのか、鼻汁が脳味噌に変身したのか、とにかく風邪はイカンな・・鼻はだ遺憾に存ずる。

☆34話=2006年1月21日・歌は世につれ・ブルーグラスの未来

クラシカルなスタイルのブルーグラスは、嫌いではありません、という前提のもとに、チト、書かせていただくと、
猿が痒いところをカキまくるがごとく、超高速ピチカートで、カキまくり、存分に痒いところをカキまくりつつ?、
ハイロンサムと称するテナーヴォイスで、オオカミの遠吠えのごとく吠える、これがクラシカル・ブルーグラスだ。
こういう音楽は、まさにアパラチア山系に移住した人々が、過酷な開拓者の宿命を背負って生きた時代を物語る。
「これが叫ばずにいられようか!」という音楽の原点を思わせる音楽は貴重だし、残って欲しい音楽ではあるのだ。
私の希望は、このブルーグラスミュージックを、母なる音楽として、ここから様々な音楽が派生して欲しい。

人は、自分の力では如何ともし難い困難や、御しがたい運命にさらされた時、宗教にすがって祈る場合も有ろう。
しかし、原始の時代、人は大地に向かい、大海原に向かい、大空に向かって、叫んだ筈だ。これが音楽の原点だろう。
日本の歌手の多くは、なんの困難もなく豊かな暮らしを満喫しているせいか、こういう原点を持ち合わせていない。
思いあまって、叫ばざるを得ないような必然性を持たない歌手など、何のかんばせあって歌手を標榜しているのだ。
などと、私は思うのだ。そこまで行かなくても、歌わずにはいられないのだ!という強烈なモチベーションくらいは、
どんなに程度の低い歌手ではあっても、最低限の必須条件として、持っていて欲しい。

話を、アメリカに戻すが、世界で最も豊かな国となって久しいし、カントリーミュージックは流行歌であるのだから、
ブルーグラスミュージックも、時代に合った、さまざまな試みをして、常に新しい音楽を生み続けていって欲しい。
私の購入したbluegrassミュージックDVDには、全く異なった音楽ジャンルとの合同演奏みたいなものも有った。
成功しているとは言い難い駄作だったので、売り物にしたのは間違いのような気がするが、試みとしては歓迎したい。
できれば、そういう奇をてらった方向ではなく、ブルーグラスミュージックそのものを、新しい傾向の音楽に変えて欲しい。
なにせ、冒頭で書いたように、猿のカキまくり!のようなのは、一般人に広く浸透しがたい音楽であるらしい。
一部の熱狂的支持者のみが愛好する、特殊音楽としてとらえられがちではある。これは流行歌として流行りにくい。
実際、「なによ、最初から最後までチャカチャカ!とやっているだけじゃないの」という感想を持つ人も居る。
だから、ブルーグラスオタク御用達以外に、別に派生して発展した新しいブルーグラスが生まれることを願っている。
そして、昨今のブルーグラス音楽を聞いていると、そこらへんに改革の証が見られるような歌と演奏が出てきている。
それらは、急激な変化ではなくて、従来からのブルーグラスの良さを世襲しつつ、より人の心に訴えかけるものだ。
クァルテット編成のものとか、男女混声ヴォーカルとか、手法は様々であろうが、これからに期待してやまない。

☆33話=2005年12月23日・明日のクリスマスにちなんで・私の子供時代

明日は全国的にクリスマスであります。世界的にもクリスマスなんでしょうが、私の子供時代は、外国のクリスマス情報なんて皆無。
絵本も少ないくらいだった。クリスマスにちなんで子供時代の話をしますが、
子供時代のクリスマスプレゼントにはワクワクさせられました。
現金を貰える正月よりも嬉しかった。現ナマ支給の正月が実入りが良いのは当然だが、なにせ雰囲気が違うモンねぇ〜、
華やかな外国文化に対する憧れもあったし、fukuroo3の子供時代は断然クリスマスでした。

ともあれ、仏教徒の皆様の異論もございましょうが、独断と偏見で、明日は全国的なクリスマスだと断言しておきます。
そうしないと、話が面白くないワケでして、
そもそも、私のカントリーミュージックサイトだとて、私の独断と偏見の発表場所ですモンね。
それでいいのよ・・芸術だって、己の信ずることを自由に赤裸々に表現しなくてはつまらないのですから。
あちらを立てればこちらが立たず、とか、各方面の皆様方にまんべんなく気配りして、ほどの良いところに結論を落とす・・
なんちゅーことは政治の世界あたりの定石です。だからアーティストから見ると、政治ほどつまらないものはないのだ。

アラ・・脱線・・何の話をするつもりだったか、忘れてしまった・・お!クリスマスの話しよね、
サンタさんを何歳まで信じていたか?という話しもね。
子どもの頃は、お絵かきが楽しみだったので、クリスマスのプレゼントは「さくらクレパス」をサンタさんにお願いしておりました。
一般には堅いクレヨンを使っていましたが、子どもの頃から凝り性のfukuroo3は、柔らかくて色乗りが良いクレパスでなくっちゃ!
という子どもでした。私の好きな肌色(と、ラベルには書いてあった)なんて、一年も経たない内に使ってしまうので、
次のクリスマスまでは安物のクレヨンで我慢しなくてはならなかった。
シカシ・・堅くて保ちは良いけれど、クレヨンというのはイマイチだった。代用はヤッパシ・・いかんな・・なんて愚痴ったり。
足らない肌色だけをクレヨンにすると、周りのクレパスとの質感が違いすぎて、他の色との整合性が無く、
フクロウ少年は、大変不満でありました。質感にこだわるのは、子どもの頃からだったのね。
だから、ろくろ首になるほど、首を長くしてクリスマスが来るのを待った。待ちくたびれて、疲れていたくらいだ。
雪国のこと故、吹雪くと外で遊ぶことは出来ないから、暖かい部屋の中で、クレパスの香りを嗅ぎながら、
駄作を描き続けるのは楽しかったデスわぁ〜。

プレゼントを貰う時に靴下を用意しなくてはならなかったけれど、
fukuroo3のお願いしているクレパスは24色入りだったかで箱が大きかった。少年にとって、これが毎年の悩みの種であった。
子どもの考えること故、用意した靴下にはとても箱が入らないだろうと、危惧しておりました。
心配だから、家族に相談し、我が家で一番大きな父親の靴下を借りたりしましてデスね。
これで、もしもサンタさんが「この靴下にはクレパスが入らないから駄目だな」なんちって持ち帰ってしまったらどうしょう!
そんなことになったらエライ事だ!。ヤッパシ、サンタさんが来るまでは寝ないで待っていないと駄目だな。
サンタさんにお逢いしたら、直にお願いして、置いて行ってくださいと、お願いしなくては!とまぁ〜本気で心配していた。
寝ないで待つと堅く決心したのに関わらず、寝付きの良い子だから、床について5分と経たずにコロリ!と脆くも寝てしまう。
翌朝、枕元にぶら下げた靴下の近くに置かれた、クレパスを発見した時は、思い切りホッとしまして吐息が出たものでした。

俗世に染まらない白神山地の麓に生まれたfukuroo3の子供時代は純真だったから、小学校高学年まではサンタさんを信じてました。
津軽の田舎でもあったから、外国の風習に馴染みのない土地柄です。
だから、サンタさんが来ない家もある。我が家もキリスト教を信仰していた訳でもなくて、無宗教でした。
でも、なぜか我が家は洋風かぶれをしておった。だから、純日本生活をしている多くの同級生のところには、
サンタさんが来なくても、そりゃ当然なのだろうと思っておった。それに、よその子が貰ったプレゼントは何かと尋ねると、
大抵はお菓子なのでした。お菓子は私も大好きだが、お菓子屋と親戚づきあいをしていた我が家であるし、酒を飲まない家族故、
甘いものはある。だから特別な日のプレゼントに、お菓子というのはイマイチと思えた。
ともかく、よそはよそ!俺んちはオレんちで、貰えない子もあるだろうし、各家それぞれ違うのは当然だろうと思っておった。
サンタだって忙しいだろうし・・、訪れる家の好みだってあるだろうし、
○×ちゃんみたいな意地悪な娘のところになんか、サンタさんが行くわきゃ〜無いモンなぁ〜。などと思っておった。
一人遊びが好きで空想がちな子どもが、サンタが居ないことを知った時には、思い切りガッカリしたのを覚えています。

☆32話=2005年12月13日・フィメールブルーグラス・新音楽種の起源

今年のアメリカ旅行をしている間、ドリーウッドでブルーグラスを満喫したのですが、ブルーグラスミュージックこそが、
純然たるカントリーの魂を伝えていると確信するに至りました。以前から私は、カントリー音楽の真髄は、
究極のところはBluegrass musicに行き着くと思ってきたのですが、再確認した思いがします。
渡米中、アリソンクラウスとロンダ・ヴィンセントのような、フィメール・ブルーグラスを何度か聞く機会に恵まれ、
未来への展望が開けてきたように感じました。
やはり、電気増幅を用いない、アコースティック楽器と人間の生の声だけで演奏される音楽には、限りない普遍性がある。
エレキギターによる音楽は、いつまで続くか解らないけれども、音楽歴史の大きな流れからすれば、僅か半世紀間ほどの、
刹那的な短期間の出来事であった、とされる時期が来るかも知れない。

ブルーグラス界では、未だに、ビル・モンローの存在は大きく、その後の男性ブルーグラッサーに色濃く継がれてきたし、
新しい試みも有るのだけれども、彼等はビル・モンローの呪縛からは逃れられないだろう。
より多くの人々に広く受け入れられる新しいブルーグラス・ミュージックにおいては、
フィメール・ブルーグラッサー達に負うところが大きく、彼女等によって未来への展望が開けて来よう。
女性ブルーグラッサー達は、実験的な音楽を実践しているわけではない。自分達がやりたい音楽を押し進めてきた結果が、
今までのブルーグラスにはなかった新しい息吹が生まれてきたということだ。
単に新しいものを追うだけでは、演奏者達の自己満足に陥り、大衆と離れていくという図式は、良くあることなのだ。
新しい未来への展望が開けたのは、アリソンクラウスとユニオン・ステーションの功績だろう。
それに続くフィメール・ブルーグラッサーとしては、近年自分のバンドを持つに至ったロンダ・ヴィンセントが居る。
彼女もまた、独自の世界を持つに至った。アリソンとロンダの二人の女性リーダーは、現代ブルーグラス界の美声歌手として、
つとに知られているだけに、影響力と存在感が大きい。
そうは言っても、男性ブルーグラッサー達による、昔ながらのブルーグラスも継承されていくだろう。
また、宗教国家である故、教会音楽をベースにしたセークレッド・ブルーグラスの流れも、綿々と歌い継がれるであろう。
しかし、ブルーグラスミュージックを世界的に広める力は、より鮮度の高い女性ブルーグラッサーに期待せざるを得ない。
今までのブルーグラスと違った香りを持っているのは、フィメール・ブルーグラッサーだけが持つ特徴だ。
彼女達の音楽は、カントリーファンのみならず、世界の音楽ファンに受け入れられて歓迎される将来性を持っている。

ここでまた、私の持論であるブルーグラスミュージックが持つ独特の「香り」というものに言及しておこうと思う。
私はコーヒー好きだが、コーヒー豆も高地に植えられたものは、産出量は少なくても、平地のものとは一味違う高貴な香りを持つ。
お茶も同様で、高地で育ったものは、一際香り高いお茶となる。音楽も生まれ育った環境によって香りを持つようになる。
歴史を辿れば、ケルティッシュ音楽や、アイリッシュの旋律が新大陸アメリカの高地・アパラチア山脈に移植された時に、
彼等の故郷の音楽が、ブルーグラス・ミュージックという香り高い音楽に生まれ変わったのだ。
それがブルーグラスの始祖ビル・モンローによって花開いたことは、新しい種の誕生ともいえる出来事だった。
その後、撒かれた種は世界各地で花開いて、東洋の島国である日本でさえブルーグラス愛好者が少なからず存在する。
そして今、ブルーグラスが生まれた祖国では、女性ブルーグラッサー達が活躍する時代を迎えている。
これは別種の香りを持つ優れた変種が誕生したに等しい。
なにせ、ついこの間までは、女性ブルーグラス・リーダーが誕生するという事など、想像できない時代があったのだ。
フィメールブルーグラス新品種誕生は、区切りの良い西暦2000年頃に双葉を開き、5年後の現在に至っているように思う。
この新ブルーグラス品種の、種の起源となったのは、
2001年に発売されたアリソン・クラウスとユニオンステーションによる歴史的名盤「NEW FAVORITE」であると断定する。
よって、シロフクロウとしては2001年こそ、フィメールブルーグラス起源元年であったと定める。

☆31話=2005年11月3日・カントリー音楽の聖地

月一回ペースの四方山話を、月初めだというのに書き加えてしまいます。文化の日にちなんだということではないが。
このところ、私の音楽サイト掲示板で、訪問者と「カントリー音楽の聖地を訪ねる」みたいな話し合いをしています。
私が思うに、カントリーのメッカがナッシュビルであるなら、スモーキーマウンテン周辺はカントリー音楽の聖地だ。
勿論、この聖地選定は、シロフクロウさんの独断ですが、ここをカントリー音楽の聖地として世界にアピールすべきだ。
キャッチ・フレーズとしてのネーミングの重要性は高いと思う。
この地のアメリカ人は、こういう考えはないらしく、自分達の地域がカントリーの聖地となる事に気付いていない。
こういうことは、私のような外国人でなくては、思いつかないことかもしれない。灯台もと暗しというわけだ。
私としては、この地域の観光業に携わる人々が「カントリーの聖地」として、宣伝に努めて欲しいと願っている。

カントリーの聖地の中でも、中核を成すのはドリーウッドの素晴らしさなのだけれど、緑の谷間に音楽が満ちている。
その中でも、生楽器主体のブルーグラス・ミュージックは、自然の中に溶け込んで、雰囲気を盛り上げている。
ドリーウッドでは、遊園地のような乗り物もあるし、室内劇場も有るのだけれども、野外ステージには独特の良さがある。
ドリーウッドの街の中では、突如、レストランの前で、ブルーグラス音楽を奏でる辻音楽士グループも出現する。
街角に小さな黒板を置いて、チョークで何時何分から演奏します、というようなことを書き、そこで演奏が始まる。
人々は、花壇のレンガ積みに腰をおろしたり、店のフェンスに寄りかかったりして、彼等の演奏を楽しんでいます。
私の訪れた時期は、オープニング・セレモニー的な要素があり、普段は聞けないDolly Partonのステージまで観られた。
しかし、通常でも、緑の谷間にブルーグラス音楽が聞こえてくるドリーウッドの街は、歩いていても楽しかった。
やはり、カントリーミュージックの根元的な素晴らしさは、ブルーグラス・ミュージックに尽きると、しみじみ感じた。
そしてまた、花が大好きなシロフクロウは、花がいっぱい植えられているドリーウッドは、とても居心地が良かった。

この土地が、Dolly Partonの生まれた土地であることや、ドリーウッドが有る土地柄であることが、聖地とする所以。
他に、ガトリンバーグやピジョンフォージなど、訪れて楽しい街の雰囲気を、私が気に入っていることもある。
そしてまた、スモーキーマウンテン国立公園内には、車の周遊コースがあって、開拓者の暮らしぶりと歴史を学べる。
カントリー音楽は、アパラチア山系に移住した開拓者達が、長い間暮らしの中で、はぐくんできた音楽であった。
このような地域の音楽文化を持つ地域を、カントリー音楽の発信基地としてとらえ、世界に伝えて欲しいのだ。
私としてはカントリー音楽を、単純にカウボーイの音楽とはとらえておらず、全プロレタリアートの音楽だと思う。
だから、世界中の働く人々に共通するメッセージを伝えうると信ずる。


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